ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

ダッチ・シーツ師の声明

 先に書いたレイクランドの「癒しのリバイバル」の悲惨な顛末について、カンザス・シティーのダッチ・シーツ師が次のような声明を出している。これは一読の価値があると思うので、取り急ぎご紹介。

 追記:シーツ師はレイクランドリバイバルに関しては最初から慎重派で、他のカンザス・シティー系の人たちがこぞってベントリーに按手した時も、彼も誘われたけれど断っていたらしい。しかしこの声明は、「ほれ見たことか、言わんこっちゃない」と言った態度ではなく、同じに主にあるコミュニティーに属す者としての団体責任というか、自分もまたアカウンタブルであるという非常にへりくだった姿勢を取っている。その上で、共に説明責任を負う者であればこそ、の大変厳しい指摘もしている。彼のその正直で真摯で主を畏れる姿勢に、なんて言うんだろう、感動したというか、スキャンダルにただ眉根を寄せるのでなく、キリストの身体として今何をすべきなのか、この件をどうとらえるべきなのか、またこの一件だけでなく、キリストの身体の中で各種の理由による問題が起きた時、他の身体の部分はどう対応すべきなのか、そういったことをいろいろ教えられた気がした。(って、大げさかもしれないけど… でも、本とにそんな気がした。)
 彼が書いていることからは、最近教会リーダーによるスキャンダルの多い今の日本の教会にとっても、学ぶところは大きいのではないだろうか。今こそ教会(特に聖霊派)が軌道修正をすべき時となるために、神様が今回の件を許されたのかもしれないとさえ思えた。

 追記2(8/27):コメント欄に書いたのですが、こちらにも付記しておきます。

 私は、今回のレイクランドの件は、今までもあったような「リーダーの堕落」とはちょっと違うなぁと感じています。今までは、この手のスキャンダルがあっても、リーダーが罪を犯したためということで本人だけが問われたものでしたが、今回はベントリーの問題というよりも、べントリーのようにリーダーとしての信頼性が確認できていなかった人物を、リーダーにまつりあげてしまった背後の「大物」たち…  つまりピーター・ワグナーやジョン・アーノット、リック・ジョイナーといった人たちですね、彼らの識別力と責任が問われているように思います。実際、按手するというのは責任の伴うことで「だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい」という御言葉は、このことを戒めていたのだなぁと思わされました。また、彼らだけでなく、ベントリーの集会の様子をTVに出させるよう手配した人、God TVのオーナー、好意的に報道したメディアや関連書を出版した出版社など…彼らの識別力も問われています。(ダッチ・シーツの声明参照)
 ベントリー自身は、「罪」と言っても、実際は離婚の手続きを始めただけらしいんですよね。それがなぜここまでの波紋を生んだのか…  ちょっと不思議です。ベントリーの「神の器」「クリスチャンの運動を導くリーダー」としての信頼性には初期の頃からかなり疑問が上がっていたらしく、それが彼の離婚手続きをきっかけに、一気に噴出したのかもしれません。ベントリー自身よりも、彼を後押ししていた「大物」たちが今後どのような対応を取るのか、そのあたりが気になるところです。あと、私は個人的には、彼の言動や経験・証がかなりオカルト的に見えたことも気になっています。
 

 追記3(8/28):ベントリーを支持していたリーダーたちの見解です。(情報源はこちら

 追記4(8/28):ピーター・ワグナーの見解です。

注:これは、ピーター・ワグナーのサイトではありません。ワグナーが書いたメールが掲載されているブログです。
 ワグナーは、ベントリーは「嘘つき(a lier and a deciver)」であると言い、ベントリー一人がすっかり悪者にされています。べントリーは自分の私生活や結婚問題について巧妙に嘘をついて隠していた、彼の周りにいる親しい人たちもそのことを知らなかったと言っています。そして、ワグナーたちのグループは、「厳しい愛」を持ってただちにベントリーを処分し、すべてのミニストリーから引き下ろしたのでもう大丈夫、とも言っています。リック・ジョイナーがベントリーに対して擁護的であるのに対し、ワグナーはベントリー一人をすっかり悪者にしていますね。また、ジョイナーは、ベントリーの結婚問題は数年前からあったことで、みんなが知っていたこと(public knowledge)と言っていたのに、そのあたりも彼らの見解は矛盾しています。ベントリーを後押ししていたリーダー同士に一致がないのに驚かされます。

追記5(8/29):カリスマ誌の創始者ストラング氏のブログより

 なぜペンテコステ・カリスマ派はこんなにも霊的識別力に欠けていたのかという点について、アンデルセン童話の「裸の王様」になぞらえて考察。彼が挙げている問題点は日本の聖霊派にもそのまま当てはまりそう。
 ストラング氏も、ダッチ・シーツ師の見解に同意している。それにしても彼らの誠実な態度からは学ぶものが多い。私はこういう事件が起きると、「お風呂の水と一緒に赤ん坊を捨て」たくなってしまうのだけれど、彼らの反応は冷静だ。捨てるべきものと、保つべきものを、慎重に選り分けている。

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