ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

エリヤとエリシャ

 今、第二列王記を読んでいるのだけれど、エリヤとエリシャの働きから、ちょろっと思わされたことをメモ。
 エリヤについては、聖書はギルアデのティシュベ出身であること以外何も触れていない。結構謎めいた人。彼は第一列王記の17章1節で、悪徳の限りを尽くしていたイスラエルの王、アハブの前に突然現れ、2〜3年の間は雨が降らないという宣告をする。そして、宣告だけすると、神様に導かれて姿を隠してしまう。その期間中は、エリヤはカラスや貧しいやもめに養われた。それから3年たって、再び神様に導かれ、おもむろにアハブに会いに行く。(彼が姿を隠していた間、サマリヤでは飢饉がひどくなり、アハブの妻イゼベルは主の預言者を大量殺戮しており、預言者オバデヤがかろうじて100人の預言者を救出してかくまっていた。)
 3年ぶりにアハブの前にあらわれたエリヤは、あの有名な、バアルの預言者たちとの劇的な対決をする。劇的な対決、そして劇的な勝利。しかしその後、彼は鬱状態に陥る。落ち込みの状態で神様からのお取り扱いを受けて立ち直ったエリヤは、主のお言葉通り、エリシャに後継者として油を注ぐ。
 エリヤのもとで約10年にわたり訓練を受けたエリシャは、エリヤの最後に際して、言い方は悪いかもしれないが、貪欲だった。もちろん、私利私欲のことではなく、霊的な意味で。エリヤは自分の最後の時を知ってか、一人になろうとして3度も「ここにとどまっていなさい」とエリシャに言ったにもかかわらず、そのたびにエリシャは「私は決してあなたから離れません」と食い下がる。(このあたり、預言者仲間とエリシャのやりとりも興味深い。第二列王2:3、5)
 エリヤはついに観念し(?)、エリシャと二人で話をすることにした。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」(第二列王2:9) 待ってましたとばかりに(?)エリシャが求めたものは、「あなたの霊の、二つの分け前が、私のものになりますように」。日本語で読むと、何の事だかよくわかんないけど、New Living Translationだと、“Please let me inherit a double share of your spirit and become your successor”となっている。つまり、「あなたの上にある主の霊が私の上にも臨むようにして、あなたのミニストリーの正式な後継者にさせてください」ということだろうか。
 それに対してエリヤは「あなたはむずかしい注文をする」(この日本語訳、傑作だね!)と言うが、条件付きで承諾する。
 そうこうしているうちに、エリヤはエリシャの目の前で(そして遠くから二人の様子を見守っていた50人の預言者たちの前で)、たつまきに乗って天に取られて行った。後に残ったのはエリヤの外套が一着。多分その瞬間には、エリシャは自分の願いがかなえられたのかわからなかったかもしれない。しかし彼がその外套で水を打つと、先にエリヤがした時のようにヨルダン川が二つに分かれたので、自分の上にエリヤに与えられていた霊と同じ霊が臨んでいるのを確信できたことだろう。
 こうしてエリヤと同じ霊をいただき、エリヤのミニストリーの正式な後継者となったエリシャだけれど、実際に彼が用いられた働きは、エリヤのそれとは随分異なっていた。
 前ぶりが長くなっちゃったけど、今回列王記を読んでいて、とても心に留ったのがそれ。
 毛衣を着て、腰に皮帯を締めた、なんともミステリアスなエリヤ。彼のミニストリーは、もっぱら王に対する厳しいコンフロンテーションだった。
 一方エリシャのミニストリーは、もう少し多岐にわたっていたというか、エリヤのように劇的なものばかりでなく、わりと人々の日常生活における働きが多かったように思える。悪い水を癒してその町の人々がこれ以上病気にならないようにしたり、預言者仲間の奥さんを助けてあげたり、将軍ナアマンの病(ツァラアト)を癒したり、仲間が川に落とした借り物の斧を探し出してあげたり。
 同じように主の御霊をいただいていても、実際に召される働きは人それぞれ。ある人は、一気に大勢の人に届くような(人の目には)影響力の大きな働きに召されるかもしれないし、ある人は、日常生活のこまごまとしたことを通して、隣人一人一人に触れるような(人の目には)小さな働きに召されるかもしれない。ある働き人が持っているパッションの領域は、別の働き人が持っているパッションの領域とは全然違うかもしれない。どちらがより優れているとか重要とか、そういう問題ではない。どのような働きであっても、その背後にあってその働きを可能にしているのは同じ主の御霊。
 新約聖書でも言われている通りのことだけれど(第一コリント12:11)、エリヤとエリシャのそれぞれの働きや、二人の間のかけ合いを見ていて、改めてそんなことを思ったのでした。


 蛇足だけど、エリヤはギルアデのティシュベ出身で、ガド族の出らしいんだよね。ガド族といえば、イスラエルの12部族が約束の地を目指していた時、ヨルダン川の東に相続地を下さいと言って最終的にそこに落ち着いた3つの部族のうちの一つ。私は、ルベンとガドとマナセの半部族がヨルダンの東に相続地をもらったという事実がすごく興味深くて、いくつか注釈書などを読んでみたんだけど、この件に関するこの3部族への評価は、結構さまざまな様子。神様が与えようとしておられるものを拒み自分でいいと思った場所にとどまった不信仰な部族、と言っている人もいれば、『主があなたがたを恋慕って…』の中で高橋先生が書いておられるような、違う観点からの解釈もある。私としては、高橋先生の説明が、とってもしっくりきた。
 で、今回も、エリヤがガド族出身と聞き、エリヤのような大預言者がヨルダン川の東に相続地をもらったガド族から出たのであれば、やはり神様は彼らを決して不信仰な部族とは思っておられなかったんじゃないかなと、改めて思ったりした。やっぱり大事なのは、ヨシュア22:5にある通りのことなんだよ。うん。私も、いつもこのことを心しておれますように。

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