ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

主の導きと大学

 主の導きは、いつだって私たちの思いを超えている。私たちには目の前の一歩か、せいぜい数歩先しか見えないが、主は私の人生のすべてをご存知であるばかりか、私がその中で出会う人たちと、その関わりの中で生まれてくるものまですべてご存知だ。

 交換留学でカリフォルニアに行っていたとき、知人のご夫婦の家にしばらくお世話になったことがあった。奥さんが日本人で、ある時こんな話を聞かせてくれた。
 彼女は大学受験のとき、某大学の文学部英米文学科が第一志望だった。しかし、第一志望の大学に受からなかったばかりか、最終的に行くことになったのは滑り止めの学校で、しかも自分の願いとは裏腹に受験していた農学部だった。彼女は当時はまだクリスチャンではなかった。しかしその大学でクリスチャンの友人と知り合い、イエス様に出会って救い主として受け入れ、大学卒業後は関西の聖書学校へ進学した。また、彼女の教会の牧師はアメリカ人宣教師で、彼の息子が日本を1年ほど訪れていたときに二人は結婚へと導かれた。そして、二人でアメリカに戻って行った。この青年は、カリフォルニアで農業を営んでいた。私が二人のところにお世話になったとき、彼女は言った。「まさか結婚してから、大学時代に学んだ農業の知識が役に立つことになるとは思ってもみなかった。やっぱり神様は何もかもご存知で、すべてを相働かせて益としてくださるお方なのね」

 実は私も、似たような経験がある。大学受験のとき、第一志望の大学に受からなかった。第二志望も落ちて進学したところは決して私の行きたい大学ではなかった。正直言って、がっかりだった。そして、来年もう一度、第一志望の大学を受験して編入すると心に決めた。
 当時はテニスサークル大全盛で、猫も杓子もテニスラケットを持ち歩いている時代だった。クラスメートにもテニスをやろうと誘われたが、心の中で、テニスなんかやっている気持ちになれないと思っていた。そして、一応英文科だしと、英文タイプ部という実に地味なサークルに入った。
 高校時代の演劇部の先輩でカトリック信者の人が同じ大学に行っていた。彼は私がクリスチャンであることを知っていて、「『聖書を学びませんか?』といって誘ってくる怪しいサークルもあるから気をつけろ。原理研には近づくな」と警告してくれていたので、私もあえて聖研サークルのたぐいには近づかなかった。
 5月も末の頃だったか、さぼり気味だった英文タイプ部に久しぶりに顔を出しに行った。部室のある階でエレベーターを降り、廊下を歩いていると、どこからともなく、聞き覚えのある歌が聞こえてきた。
 「美しい この空を 愛らしい この花を うかんでる 白い雲 かおりよき青草を…」
 あれ? うちの教会のCSでも歌っている歌だ。
 私は歌が聞こえて来る方向に引き寄せられ、ある扉の前に止まった。そこには「キリスト者学生会(KGK)」という張り紙がしてあった。先輩は怪しい聖研もあるから気をつけろと言っていたけど、この歌を歌っているグループなら安全に違いない、そう思って私は扉をノックした。
 その日から私は、KGKに入り浸りになった。
 自分の小さな教会しか知らなかった私に、KGKとの出会いは数多くの恵みをもたらしてくれた。「静思の時」の習慣、聖書の学び、証をすること、救いの確信について、聖書信仰とは、福音主義とは、仕えるとはetc.... 聖書の知識も豊富で、優しくて、面白い先輩たち(ある時先輩に「はちこさんはよこしまな人ですね」と言われた。何かと思ったら私はその日、マリンカラーのボーダー柄、つまり横しまのTシャツを着ていた)、祈りと学びに熱心で、主をもっと知りたい、主と人とにもっと仕えたいという飽くなき願いを持つ先輩たちから、私は大いに刺激を受けた。失意の中で始めた大学生活だったが、KGKのおかげで、とても有意義なものへと変えられていった。
 冬になり、もし本気で再受験をするならそろそろ願書を出さないといけない時期が来た。私の中では、このままこの大学を続けてもいいという思いが湧いていた。それでも、決めていたことだし、挑戦だけはしたいという思いもあり、願書を出した。「私はこのままこの大学に残ってもいいと思い始めていますが、あなたはどう思っておられるでしょうか。編入が御心なら合格させてください。そうでないなら落ちますように」そう祈っていたのを今でもはっきり思い出す。(今にして思うと、かなり勝手で適当な祈りだが…汗)
 KGKの先輩には、再受験のことは言い出せなかった。年度末が近づき、来年度のリーダーシップの編成のことを話し合うときも、「はちこさんにも加わってもらおう」と当然のように言われていた。心の中で、「どうせ落ちるし、ま、いいか」と思っていた。合格発表も見に行かなかった。それくらい、もはや私には「もと第一志望」の大学に執着がなくなっていた。
 それなのに、分厚い封筒が速達で送られてきた。合格だった。後でわかったことだが、その年の編入枠での合格者は4人だけで、私はその一人だった。
 本当に編入すべきか迷ったが、合格したということはそこに主の導きがあるのだろうと思い、編入を決意した。先輩たちに報告するのは、とても辛かった。(その後20年以上経ち、偶然ネット上で当時の先輩と再会したとき、「はちこさんに大学をかわると言われたとき、ぼくとKちゃんはショックで数日食事が喉を通らなかったんですよ」と言われた。苦笑)
 4月、ついに憧れの大学に通うようになった。日々の授業は前の大学とは比べ物にならないくらいやりがいがあって楽しかった。編入して良かったと思った。ただ唯一、その大学はキリスト教主義の大学ではあったものの、学際的でリベラル色が相当に強いところだった。もしその前の年に1年間KGKで養われていなかったら、私はあっという間につまづき、信仰を失っていたかもしれない。あの一年間は、私にとっての回り道ではなく、主がわざわざそのように計画されていたものだったと確信が持てた。
 この大学には交換留学のシステムがあった。私がこの大学に行きたいと願っていた理由の一つはそれだった。前の大学と比べて、霊的には満たされない状態が続き、疲れ始めていたこともあり、留学に申し込む機会が与えられたとき私は迷わず申し込んだ。そして、無事、審査に通り、カリフォルニア大学サンタクルーズ校(UCSC)に留学することになった。
 UCSCでの生活は素晴らしかった。やりたいと思っていた勉強もできたし(日本で在籍していた大学ではできなかった)、何より、そこで出会ったInterVarsity Christian Fellowshipというキャンパスミニストリーが素晴らしかった。導かれた教会も素晴らしかった。霊的に枯渇しかかっていた私は、たちまち潤された。クリスチャンの仲間たちとの濃い交わり、やりがいのある勉強。(英文タイプ部で鍛えたブラインドタッチのおかげで、タイプ打ちもアメリカ人の友人たちより私の方がはるかに早く正確だった。)交換留学だったので1年後には帰国するはずだったが、どうしてもそうする気になれず、InterVarsityの仲間たちにも祈ってもらいつつ、編入手続きをとって次の年も戻ってくることにした。日本の大学は休学した。そしてさらにもう一年をUCSCで過ごし、そのままそこを卒業した。
 卒業間近になって進路を考える頃、私の中には大学院に進学して今やっている勉強を続けたいという願いが与えられた。アドバイザーの先生に相談すると、諸手を挙げて賛成してくれた。「でも学費のことが心配なのですが」というと(当時はプラザ合意前だったので、1ドル=250円の時代)、「心配するな。大学院は自分で学費を払って行くところではない。絶対に奨学金が出るから。私も良い推薦状を書くよ」と言われ、それを信じた。
 1986年に卒業し、いったん帰国。帰国後、休学中だった大学には退学届を出した。親に大学院に行きたいと言うと、行くのは一向にかまわないが、これ以上学費は出せんぞ、行くなら自分で奨学金を取ってこい、と言われた。私は大学院受験の準備をしながら、最低限の資金かせぎのためにフルタイムでアルバイトを始めた。TOEFLGREも受験した。当時は今みたいにインターネットなど普及しておらず、アメリカから持って帰ってきた資料をみながら、10校近く選んで郵送で願書を出した。合格したのはミシガン大学とプリンストン大学の二校だけだった。しかしプリンストン大学は、学費も生活費も100%面倒見てくれるというオファーだった。
 日本でのこの一年間は、カリフォルニア大学での聖研で一緒だったケイティーが英語教師として日本に来ており、私の実家にホームステイしていた。私の母教会に一緒に行き、バンドやCS奉仕そのほか、教会生活もものすごく充実していた。あまりにも充実していたため、やっぱり大学院に行くのはやめてこのまま日本で就職しようかなという思いも頭をよぎった。しかし、祈りの中で進学を促されたので、予定通り夏からアメリカに戻ることになった。
 再渡米の準備をしていた1987年7月、プリンストンから日本語の手紙が来た。差出人はこうなっていた。

 プリンストン日本人会会長 中村昇(気象学博士課程4年)

 秋からの日本人新入生へ、歓迎の手紙だった。 手書きの宛名は字がとても上手で、博士課程の4年生だなんて、この人はどんな大人だろうと思った。それが第一印象。(まだ会う前だったが。)まさかこの人と結婚することになるなんて。
 ちなみにケイティーは、当初1年の予定で日本に来ていたが、結局2年間滞在した。2年目を残るか迷っていたとき、うちの教会の牧師婦人に、「もう一年というのは今のあなたにとっては長い期間のように感じられるかもしれないけれど、人生全体からみれば、ほんのわずかの時間。もし導きを感じているなら、心配しないで残るといい」と言われ、残ることに決めた。そしてその年に日本から参加したタイのワークキャンプで知り合ったアメリカ人男性と、本土に帰国してから結婚している。

 なんだかつらつらと書き並べてしまったが、神様の導きというものは、しばしば私たちには先見できないものだ。後から振り返って初めて、「あのときのあれはこういう意味があったのか」とわかることが多い。自分の願いとは違う方向に進まざるを得なくなったときでも、実はそれが後の重要な布石になっていた、ということも少なくない。
 とにかく確かに導いてくださっていた主に感謝。そして、その確信があるからこそ、エミをはじめ、子供たちの人生も、安心して主におまかせできる。ハレルヤ、Glory to God!

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