ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

クリスマスの朝

 クリスマスの朝です。ところが私は、目覚めた時から体調がいまいち… 壁がぐるぐるタイプのめまいがして、それでも無理に起き上がって数歩歩いたら、バランスを崩して本棚にぶつかり、そのまましばらく床の上に転がっていました。別に多忙だったわけでも何でもないのに、なぜだろう。ちょっと寝不足気味の感はあるので、そのせいかもしれません。あるいは、風邪のひき始め?

 昨日のクリスマス礼拝、11月末からずっと「Fear Not」というテーマのメッセージが続いていて、昨日はその一つだった。「恐れるな」というのは、必ずしも聖書の中心テーマではないけれど、聖書の中で、人間に向かって一番多く語られている言葉の一つ。(マックス・ルケードか誰かは、聖書には「恐れるな」という言葉が365回出てくると言った。つまり、一年中、私たちは毎日「恐れるな」という語りかけを神様から受けることを必要としている…)

 個人的には、今何かを特に恐れているということはないけれど、fear-breakerであるジーザスは、無力な人間の赤ん坊としてこの世に来られたという、考えれば考えるほどメイクセンスしない不思議な神様のご計画、不条理とも言えるご計画に… 言葉にしてしまうと実に陳腐ですが、とにかく、へりくだらされる思いでした。昨日の礼拝では、最後に本物の生後数カ月の赤ちゃんが、壇上に作られた馬小屋の飼い葉桶の中に寝かされていました。赤ちゃんが必死に足を蹴り、布をつかんで手を不器用に動かしている姿を見て、そのことをひしひしと感じました。

 夕べ、立川チャペルの高橋秀典先生から、クリスマスのメッセージが届きました。昨日の礼拝後に思わされていたこととストンとつながるものがあり、とても心に響きました。許可をいただいたので、ここに全文ご紹介させていただきます。

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メッセージ 「正しすぎてはならない」−Let it be -

 待ちに待った、小生の伝道者の書の翻訳と解説が出来上がり、本日、手元に届きました。題は「正しすぎてはならない」−Let it be –としました。原稿を印刷に回す直前になって、イエスが「let it be・・」と言われた箇所を発見しました。ヨハネがヨルダン川で人々にバプテスマを施している時、イエスも彼からバプテスマを受けようと近づいて来られました。ヨハネはその方が救い主であることに気づき、そのような恐れ多いことはできないと言います。
躊躇する彼に行動を促すイエスのことばを、多くの英語訳は、「Let it be so now」(今は、そのままに・・)と記しています(マタイ三・一五参照)。ヨハネは自分がすることの意味を理解できないままイエスの求めに応じました。それこそlet it be の心です。
私たちのまわりにも納得できないようなことが日々いろいろと起きます。しかし、必要なのは、目の前に、主から示され続けている課題を、ひとつひとつ着実に成し遂げてゆくことではないでしょうか。自分を振り返ってみても、感情に振り回されて、自己弁護に走ったり、人を攻撃したり、問題を一気に解決しようとしてかえって事態をこじらせてしまったことがあったことを反省せざるを得ません。Let it be とは、目の前の本当に必要なことに取り組むための神からの知恵のことばです。

 ところで、伝道者の書で、目を開かれるみことばとして以下のようなものがあります。これは私訳ですのでお聞きください。

神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものを、誰がまっすぐにできよう。 7:13
幸せな時には幸せを味わえ。災いの時には、(神のみわざに)目を留めよ。 7:14
これもあれも神のなさること。このため人は後の事を見極めることができない。
 この空しい日々の中で、すべてを見てきた。             7:15
正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。
正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜ自分を滅ぼすのか。7:16
悪すぎてもいけない。愚かであってもならない。なぜ、その時でもないのに死ぬのか。7:17
一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。     7:18
神を恐れる者は、すべてをくぐり抜ける。


 アフリカのウガンダでは10年くらい前に、リバイバルが起こり、福音が国の隅々まで届き、エイズも次々と癒され、世界初のエイズ患者減少国となったとのことです。しかし、そこで最近、国会に反同性愛法案が提出され、同性愛者やその協力者に、場合によっては死刑を含める厳しい罰則を課す法律が通されようとしているとのことです。しかも、それは米国の保守的なクリスチャン指導者の影響によると報道されています。その関わりを取りざたされたリック・ウォレン師をはじめとする有名なキリスト教指導者は、そのような過激な動きが出てきたことに心を痛め、神の正義を振りかざすことで、より大きな不正義をもたらすことになると同法案への反対を必死に表明し始めました。
私たちの場合も、同性愛は神の創造の秩序に反する罪であると言わざるを得ませんが、それを法律で処罰することによって抑えようという動きには決して賛成はできません。
昔、アメリカではキリスト教保守派の圧力で禁酒法が施工されたことがありましたが、その結果、反対にマフィアの勢力が急拡大したということがあります。この世に広がる不道徳を、力で解決しようとするとき、かえって力による抵抗を受け、人々の中から愛が冷めてゆきます。
 私たちの周りに、正論を展開しながら、そこに愛が感じられないということがないでしょうか。そのようなとき、伝道者の書のことば、「正しすぎてはならない」ということばが心に響いてきます。

 クリスマスは、確かにイエスの誕生を祝う祭りですが、聖書的には、全世界の創造主であられる方が、ユダヤ人の娘マリヤの胎内で人となり、ひ弱な赤ちゃんとしてご自身を現されたことを記念する日です。
当時のユダヤの人々は、救い主が来たら、自分たちをローマ帝国の圧制からたちどころに解放してくれると期待していました。しかし、実際に現れた救い主は、時のローマ皇帝アウグストと戦う代わりに、その命令に振り回されるひ弱な家庭から誕生することを選ばれました。マリヤとヨセフは、人口登録のため遠くまで旅をせざるを得ませんでした。しかも、宿屋にも泊めてもらえず、町外れの暗い洞窟の飼い葉おけにお生まれになりました。そればかりか、人間的には、イエスはマリヤの子ではありましたが、ヨセフとは血のつながりがありません。いわば私生児の立場でお生まれになりました。以来、イエスの出生には、いろんな悪評が立てられ続けています。しかし、神の御子は、あえて、この世の最下層の人の仲間になるために、そのような誕生を選ばれたのです。ただ、それこそが福音の不思議です。
つまり、創造主が人となったとは、この世の不条理を正す代わりに、この世の不条理のただなかに生きる者となられたということです。それは、力で正義を実現する代わりに、人々の心の中に、愛の火をともすためでした。たとえば、先の同性愛の問題にしても、彼らの心の痛みをいっしょに味わおうとする姿勢がなければ、決して、彼らに真の神の愛を知らせることはできないでしょう。
 「きよしこの夜」の作詞者、ヨセフ・モールは下級兵士と貧しいお針子との間に生まれましたが、その父親はすぐに行方知れずとなり、私生児として育ちました。そのため、才能があるのにも関わらず一生、正式なカトリック司祭となることはできませんでした。彼はイエスの誕生と、自分の惨めな誕生を重ね合わせながら、6番まであるドイツ語の歌詞を書いたのではないでしょうか。しかも、これに美しいメロディーがついたのは、クリスマス・イヴの前日、パイプオルガンがネズミに穴を開けられ、音が出なくなったため、教会のオルガニストが急遽、ギターで演奏できる曲を作曲する必要に迫られたからです。

 ところで、先ほどの伝道者の書では、「わざわいの時には、神のみわざに目を留めよ」と記されています。新改訳聖書では、「順境の時には喜び、逆境の日には反省せよ」と訳されていますが、それは誤解を与える翻訳のように思えます。「反省せよ」と訳されたことばと7章13節初めの、「目を留めよ」と訳された原語は同じだからです。私たちの災いは、神の御手の中にあるのです。
しかも、マリヤとヨセフは、イエスの誕生を前に、「神様、安心して出産できる場所をお与えください」、「信頼できる助産師をお与え下さい」などと、必死にお祈りしたことでしょう。しかし、それらの祈りは、何ひとつ聞き入れられなかったとも思えたかもしれません。ふたりは、それらすべてを、Let it be に受け止め、ただ、黙々と、自分ができること続けました。神は、このとき、マリヤとヨセフのために戦う代わりに、その悲惨な条件を甘んじて受け入れるように導いておられたのです。
 しかし、神は、その只中で、生きて働いておられました。天の軍勢が貧しい羊飼いたちに現れ、すばらしい天使の賛美を聞かせてくれました。マリヤもヨセフも、それを聴くことはできませんでしたが、羊飼いの訪問を受け、この世の悲惨な現実の中に、神の力強い愛のみ手が働いていたことを知ることができました。
 また、後には東方の三人の博士たちも訪ねてきて、高価な宝物を送り届けてくれました。マリヤが自分の正義を主張しなくても、羊飼いが、また東方の博士たちが、イエスが神の御子であることを証してくれたのです。そして、これらすべてのイエスの誕生にまとわる不条理のシンボルが「飼い葉おけ」です。


 もちろん、これらは私たちが正義を求めたり、知恵を求めたりすることを否定する教えではありません。問題は、「正し過ぎる」「知恵がありすぎる」ことの問題です。知らないうちに、自分の正義、自分の知恵を振りかざして、私たちの思いを超えた「神のみわざに目を留める」ことができなくなることへの警告です。
ですから、それと同時に、「悪すぎてもいけない」「おろかであってもいけない」と警告されています。人は成長をあきらめたとたん、わがままなモンスターになりえます。

 そして、何よりも大切なのは、「正しすぎ」ることもなく、「悪すぎることもない」という両者を同時につかんでいることです。それこそが、「神を恐れる」という生き方です。そして、そのように神のご支配に信頼する者を、神は最終的に、あらゆるわざわいから守り通してくださいます。

 マリヤとヨセフが、あたふたとしていたかもしれないとき、また神の御子が汚く冷たい飼い葉おけに寝かせられたとき、神の愛のまなざしは確かにそこに注がれていました。その悲惨を上から見下ろしていたのではなく、イエスと心をひとつにしておられた神は、ご自身で、人々の愛のない仕打ちに心を痛めておられました。しかし、愛のない人に、「あなたには愛がない」と説教したことで、何の変化が生まれるでしょう。神の御子はご自分の正義を主張する代わりに、この世の不条理を自ら味わってくださいました。それは、私たちひとりひとりの冷たい心に寄り添うためでした。


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It's true. The Savior has come. As strange as it may sound, as unbelieable as it may be,it's true, the Savior was born. It's true. Immanuel.

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