現実を受け止める
先日、ある牧師さんのメッセージで、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」という御言葉は、何かが起こったとき(特に自分が願っていたこと)に言われることが多いけれど、本当にそう信じているならば、自分の目には何も起きていないように見えるときでも、同じように「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と告白できるはずでは、というようなことを読んだ。
そして昨日、KGKの山崎総主事のブログで、「息子の病に関しては、回復に向かっての様々な期待や願いをもっていますが、同時にしっかりと現実を受け止める信仰の大切さを実感してきました。現実を受け止めることこそ、真に霊的なことであると教えられつつあります。それは、現実を許しておられる神を信頼することから生まれる信仰の姿に他ならないからです」という文章を読んだ。(息子さんのことに関しては、私も昨年末からずっと祈らせていただいています。)
現実を受け止めるとは、その現実を許しておられる神を信頼することから生まれる信仰の姿… まったくアーメンです。
主の御顔を仰ぎ、主にある希望を告白するとは、現実を否定することとは違う。現実を受け止めるとは、希望を捨てることではない。諦めることではない。
今、この瞬間、起こっていることも起こっていないことも、すべて主の主権のもとにあり、「時にかなって美しい」と認めることだと思う。その中で、主が示してくださるnext stepを、忠実に、主に信頼しつつ、一歩一歩進んでいくことだと思う。そのnext stepは、ときにはびっくりするような大胆なことかもしれないし(「水の上を歩け」とか)、ごく日常的な些細で当たり前のことかもしれない(「起きて食べよ」とか)。何であれ、忠実でありたい。そのことを、主に信頼して行なえる者でありたい。
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ55:8、9)