ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

CC11

 今年は、3.11の震災を抜きにしては語れないCCだった。お二人の講師、宮本先生もポール鈴木先生も、震災後すぐに日本に戻られ、被災地に入って奉仕をなさってこられたので、被災地の状況をそれぞれにご報告してくださり、皆で祈ることができた。海外にいる日本人としてもどかしさをずっと抱えていた私にとって、スモールグループなどで同じ思いを共有する人たちとそれを分かち合い、祈り合えたことは大きな恵みだった。
 また、いろいろな場面での交わりやメッセージを通して、私が特にこの1年間あまり語られてきたことが、より明確になったような気がした。それは、「なくして(手放して)いいものと、なくしては(手放しては)ならないものの区別」とでも言えるだろうか。
 日曜日の朝のポール先生のお話、私はその時間、チャイルドケアの幼児のお部屋にいたので直接は聞けなかったのだけれど、後からほかの人が教えてくれた。こんな話。
 ポール先生が初めてシカゴマラソンに出場したときのこと。「自分は形から入る方だから」と、ナイキのウェアを上下揃えた。朝の走り始めの頃はまだ寒いだろうからと、腕や足も覆う体に密着するタイプのもの。ところが、当日会場に行くと、他の人たちは誰もブランド物のウェアなど着ておらず、ボロいTシャツを着ている。中には、穴をあけたゴミ袋をかぶっている人までいた。何なんだ?と思いつつ、走り始めてしばらくしてその訳がわかった。走っているうちに当然だんだん暑くなってくる。そうすると、ほかの人たちは皆、身につけているものをどんどん脱ぎ捨てていくのだ。どうせボロだから、気にせずに脱ぎ捨てていく。ところが、自分は新品のブランド物を身につけているので、脱ぎ捨てることなどできない。結局、立派なウェアがあだとなり、思うように走れなかった。信仰のレースも同じ。あまり立派なものを身にまとっていると、それが邪魔になって信仰のレースを走りきれなくなる…
 特にこの一年間の私は、見栄えの良いウェアを身につけていたのを、神様によって無理やりはぎ取られたとも言えるかもしれない。心の中でいつの間にか後生大事に握りしめていたいくつかのものが、否応無しに取られた。それは、必ずしも悪いものではなかったと思う。大切にして当然のものだったと思う。それでも、自分の手に握りしめるということは、主に100%信頼していることにならなくなる。神様はそこを問題にしておられたのかもしれない。

 もう一つの私にとってのCCのハイライト、それは、長年ネット上で交流のあった神学生のハセクニオさん(このブログにもちょくちょくコメントをくださいます)と初めてお会いし、ゆっくりお話できたこと。ハセさんはピッツバーグにある改革派の神学校に留学しておられ、今月帰国される。帰国前にようやくお目にかかれて本当によかった。
 ハセさんとの会話は、表面的なものではなく、立ち話だったのだけどとても立ち話とは思えないような(笑)、小一時間にわたるいきなり深いレベルでの分かち合いだった。ある意味、私とハセさんは立場がかなり違う。にもかかわらず、私たちが問題意識として持っていたものは非常に似通っていて、私が「この話題はなかなか他の人と分かち合えない」と長らく思っていたテーマを、直球で語り合えたことは、本当に恵みだった。そして会話の中でいくつものヒントと指針を与えられ、とても感謝だった。この会話の内容については、後日、差し障りのない範囲で(?)、改めて書くかも。
 ハセさん、どうもありがとう。これからもよろしくお願いします。日本でのお働きの上にも主の祝福と導きが続けてありますように。

 そして、姉妹たちとの交わり。愛する姉妹たちとの分かち合いは、毎回とても潤される。CC後にはテキサスのあいみ。ちゃんがうちに一泊していってくれたので、あいみ。ちゃんともゆっくりお交わりできて感謝だった。

 それにしても今回のCCは、4人の実行委員が本当に献身的に奉仕してくださった。この4人の働きを通して現された主の御業に感謝。通り良き管として働いてくださった4人に、心から感謝。

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