ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

交わり

 今日の礼拝メッセージは、スモールグループに関してだった。神様ご自身が絶えず三位一体の交わりの中におられたことを、「神様ご自身がスモールグループだった」と表現していたのが興味深かった。神ご自身が、絶えず三位一体の交わりの中におられたことはダラス・ウィラードも「心の刷新を求めて」の中で語っていたっけ…
 今ボランティアで翻訳している文書でも、ちょうどスモールグループに関する章があり、そこでJ.I.パッカーの「交わり」に関する考察が引用されていた。

『交わり』とは、新約聖書の中でも特に素晴らしい言葉の一つである。それは、私たちの霊的健康にとって欠かすことができず、教会の真のいのちにとっても中核をなすものを指す。交わりとは、第一に縦軸があり、次に横軸という二次元構造になっている。つまり、まず御父と御子イエス・キリストとの縦の交わりの現実を知ることが、互いの間の横の交わりの現実を知ることに先立つ、ということである。横の交わりは、私たちが共に神との関係を持つ中に実現する。主にある兄弟姉妹とその交わりを分かち合いつつ、神が私たちに与えてくださったように私たちも与え、そして受け取るのである。
そこで、キリスト者の交わりとは、神があなたに知らしめてくださったものを、他者と分かち合うよう求めることを意味する。そして、相手もまた神について知っていることを、あなたと分かち合う。この相互の分かち合いを通して、私たちの魂は力を見出し、潤され、教えを受けるのである。他者が差し出すものを、感謝をもって受け取る。そればかりか、与えるためにも努力する。そして、受け取るだけでなく、与えることの内にこそ、人は魂の刷新と力を見出すのである。
交わりとは、愛と謙遜の両方の現れである。それは、他者に益をもたらしたいという願いと、自分は弱くて必要のある者だという自覚から生じる。そこには二重の動機がある。助けたいという願いと助けてほしいという願いであり、他者の徳を高めたいという願いと自分の徳を高められたいという願いである。このように、交わりとは神を求めるためのキリスト者の共同行為なのだ。キリストに従う人々が、個人的に教えられてきたことを互いに分かち合うことを通して、さらに深く神を知ることを求める。他者に善を為し、また他者が自分に善を為してくれることを求めるのである。

 これを読みながら、まさにこういった「交わり」が、多くの信仰の友との間に与えられているなぁと気づき、主に感謝した。そして、皆さんにも感謝。

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