ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

私も、失うときは失うのだ

 先週あたりから、心に響いている箇所。

「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」創世記43:14

 これは、エジプト全土がききんに襲われ、カナンも食べ物がなくなったため、イスラエル(ヤコブ)が息子たちをエジプトに送ったときのセリフ。その前に息子たちを送ったとき、ヨセフに「次に来るときは末の弟も連れて来ないとだめだ」と言われため、その後ヤコブはベニヤミンを失うのを恐れて、息子たちを行かせることができずにいた。しかし、いよいよまた食べ物が底をついてしまい、観念してベニヤミンも一緒に送り出したのだった。

 私はもう数年前から、「Outcomeを手放す」ことについて神様に語られていたのに、頭で分かっていても、どうしても主に明け渡しきれないいろいろなこと(子供の将来とか)があり、葛藤が続いていた。Spiritual directionのセッションでも、「Outcomeを手放す」ことを何度となくパスターに指摘されていた。みんを大学に送り出すにあたっても、つい最悪のシナリオを考えてしまい(NYの路上で、銃の乱発事件に巻き込まれたらどうしよう、とか、20階の部屋の窓から間違えて落ちたらどうしよう、とか、拉致されて人身売買に売られてしまったらどうしよう、とか、もちろん、もっとありそうな心配も)、心配性の私はついつい心配してしまうのだった。でも、入寮日の朝、祈っていたらこの御言葉の「私も、失うときには、失うのだ」の部分が心に浮かび、何かふっと、吹っ切れた気持ちになった。ヤコブはここで、最善のシナリオになることを求めてそのように主に祈り求めている。しかし同時に、そうならないとしても良しとしている。しがみついていない。最善を求め、自分にできることはベストを尽くすけれど、その結果どうなるかは、主に委ねる。握りしめない。抵抗しない。
 「私も、失うときには、失うのだ。」そう言えるなら、心が楽になる。ヤコブが主に全幅の信頼を寄せていたからこそ、自分の手に握りしめていたものを手放せたように、私も手を開こう。手を開き、自分が握っていたものを神様にお返ししよう。主の御手の中は、私の手の中よりも、もっとずっと安全な場所だから。

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