ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

翻訳中…

 Boundaries in Marriage (邦題:「二人がひとつとなるために 〜夫婦をつなぐ境界線〜」)のゲラ校正が終わったと思いきや、もう一冊翻訳中の、"The King Jesus Gospel --The Original Good News Revisited"の仕上げに取りかかっている。暮れの一時帰国の際、出版社の担当の方とお目にかかる予定なので(お初です!)それまでに、一通り仕上げておくべく、頑張り中なう。

 翻訳原稿をチェックしながら、つらつらと考える。翻訳は、英語力以上に日本語力が必要だと言われることもあるが、それはちょっと違うのでは、と。日本語力が必要なのはもちろんだが、そもそも、原文を正しく読み取れなければ、お話にならないと思う。それが大前提としてあっての、日本語力ではないのか。
 正確な訳=直訳、というイメージがあるため、「訳が正確であればいいというものではない、日本語として不自然ならそれは悪い翻訳」、みたいな言い方がされてしまうこともあるが、いくら日本語としてこなれていて読みやすくても、原意から外れた不正確な訳であれば(つまり、著者の言いたいことを正確に伝えていない訳文であれば)、そんな翻訳文には存在意義がない、とさえ、私は思う。(娯楽目的のフィクションなら話しは別だろうが。)
 正確な訳とは、一語一句、逐次で訳されているとか、語順が原文と同じだとか、辞書に出ている訳語しか使わないとか、もちろんそういう次元のことではない。著者の意図を正確に捉え、それを読者に伝えることのできる訳のことだ。結果として、文字面だけ見たら、原文からは随分かけ離れているように見える「原文に忠実な正確な訳」もあるだろうと思う。

 人間というのは、自分にとって意味をなすものに心地よさを感じるものだから、原文を読んですぐに意味がピンとこないと、翻訳者はそれなりに意味が通じるように、つじつまを合わせて訳したくなる誘惑に駆られることがある。あるいは、自分の思い込みが原文理解に、そして翻訳に、反映されてしまうこともある。
 しかし、翻訳には謙遜な態度が必要だ。何より自分が一読者として、著者に教えを乞うという姿勢が必要だ。著者は何を言わんとしているのか、耳を研ぎすませて聴き取ろうとするのだ。もし自分の翻訳文が、原文通りに訳しているはずなのに、どこかすっきりしないなぁと思ったら、まずは、自分が著者の言わんとしていることを読み取りきれていないのだと疑ってかかる。単語一つひとつ、辞書を引き直す。自分の知らない熟語や専門用語が使われているのかもしれないと疑って調べる。自分の理解力を高めるために、辞典や注解書や関連書を読む。「こう訳せば分かりやすいだろう」と思う訳が、実は自分のちっぽけな理解を反映しているにすぎない、恥ずかしい訳文である可能性もあるのだと、自分に言い聞かせる。安易に「こう訳せば分かりやすいだろう」という訳に走るのでなく、何かがおかしいなら、自分の理解度を徹底的に追求する。自分の理解度のレベルに合わせて、著者の言葉を引き下げるようなことがあってはならない、と思うからだ。
 そこまでやってから、ようやく、読みやすい自然な日本語を目指す段階に入ることができる。

 私なりのこだわりだと言えば、まぁそうなのだけれど、そんなわけで、時間がやけにかかってしまうのです。関係者各位、ご迷惑おかけしていてすみません。(…と、ここまで書いてきたのは、自分の仕事が遅いことへの単なる言い訳だったのか! しかも、これだけこだわっていても、出来上がったものは、やっぱりあまり読みやすくない、変な翻訳かもしれないという悲しさ… orz)

The King Jesus Gospel: The Original Good News Revisited

The King Jesus Gospel: The Original Good News Revisited

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