ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

Faithful Presence

 先日ご紹介した上沼先生の記事の中にあった「Faithful Presence」というフレーズがとても気になったので、検索して調べてみた。すると、Christianity Todayのこの記事が出てきた。To Change the World: The Irony, Tragedy, and Possibility of Christianity in the Late Modern WorldというJames Davison Hunterによる本の書評記事だ。

 

-Faithful Presence 

 

 この書評によると、本書は3つの随筆から成り立っていて、一つめでは「文化」についての考察。著者は、アメリカのクリスチャンが伝道、政治活動、社会改革によって社会を変えることはできないと論じる。著者の考えでは、伝道や政治活動、社会改革によって社会を変えることができるという考えの根底には、「文化というものは諸個人が持つ価値観によって成り立つ」という概念があるが、そもそもそのような前提がすでに間違っているということらしい。

 二つめの随筆では、アメリカにおけるキリスト者の政治活動(いわゆるキリスト教右派、キリスト教左派、新アナバプテストなど)を批評し、今日の教会の公衆に対する証は政治的なものとなってしまったと論じる。

 三つめの随筆では、ではキリスト者はどのようにこの社会・文化に関わっていけばよいのか、新しいパラダイムを提唱し、それをFaithful Presence と呼ぶ。(こういうキーワードの翻訳は難しいので、とりあえず英語のままで。)

Faithful Presence とは、文化を変えることではなく、ましてや世界を変えようというものでもない。そうではなく、キリストの弟子を作り、公益に仕えるために、個人と社会制度が共に働くことを強調する。ハンター(著者)は、「我々がこの世と関わることで慈善的な結果が生まれ得るとすれば、それはこの世をより良いものに変えようといった願いから出るものでは決してないだろう。むしろ、すべての良いもの、美なるもの、真実なるものを造られた創造主に敬意を払いたいという願いの表現として、神への愛から出た従順の現れとして、汝の隣人を愛せよという神の戒めの成就として、もたらされるものである。

 アマゾンの本の説明にはこうある。

ハンターは、今日のクリスチャンの間でもっともよく観られる『世界変革(world-changing)』のモデルを鋭く評価するところから始め、それがいかに本質的な誤りを含んでおり、したがって彼らが望んでいる変化をもたらしようがないことを強調する。

 「変化」には「力」が伴うものなので、結果としてすべてのキリスト者は政治的な関わりのための方策を模索し、それを用いようとすることになる。

 ハンターは、チャールズ・コルソン、ジム・ウォリス、スタンレー・ハワーワスといった信望の厚いリーダーたちをやり玉にあげ、キリスト教右派、左派、新アナバプテストらの政治的神学を手厳しく批判する。そして、こういった政治神学は、自分たちが解決するつもりの問題を解決するどころか、往々にして悪化させてしまうものであると論じる。

 では何が求められるのかといえば、キリスト者がそれとは異なるパラダイムにのっとってこの世と関わっていくことであり、ハンターはそれを「faithful presence」と呼ぶ。「faithful presence」とは単に個人的なものにとどまらず、制度的なものでもあるキリスト者の理想的な日々の行い(an ideal of Christian practice)である。あらゆる人間関係で、さらには仕事を初めとするあらゆる社会生活において、実践され得るモデルである。ハンターは、「faithful presence」の実践によってどんなことが実現可能になるのか、大小さまざまな現実生活における例を掲げる。いかにも野心的などんな試みよりも、このような実践こそ、実際に多くの実を結ぶことができ、模範となり、変容をもたらすことが可能なのであると、ハンターは論じる。

 

 うーん、とても興味深い。日本でも、原発や、憲法改正など、政治的にも非常に気になる問題が 次々と出てきている。キリスト者としてどのような形で関わっていったらいいのか、考えさせられるところだ。

 イエスが私たちに示されたモデルは、明らかに、政治的な力を得ることによってこの世に変化をもたらすものではなかった。力を得るどころか、まったく力のないものとなられた。それを、今日の私たちはどのように適用し、実践したらいいのか… この本、読んでみたい。

 

時差ぼけ

 毎度のことながら、時差ぼけにやられています。戻ってきて最初の二日くらいは、比較的いい感じに夜に眠れるものの、三日目くらいからなぜか、昼夜逆転。夕べは3時ごろに就寝し、弁論トーナメントに出るま〜やを高校まで送っていくため朝6時に起床。その後、やはり眠たくて、9時頃にベッドに逆戻り。次に起きたのは午後2時… しかも起きてからしばらくは頭がぼんやりして使い物にならず。夕方ごろからようやく意識がはっきりしてきた。(汗)ああ、今夜も眠れないのでしょうか。回復までに10日は覚悟しているものの、やはりこの期間はつらいです。

 

 ところで、日本にいた3週間弱の間に、体重が「おっ!」というくらい増えました。数字にすると、4.5キロくらい。母親には、「あなた、目に見えて太ったわね」と言われる始末。日本の体重計はキロで表示されるので、ポンド(lb)に慣れていた私は、最初、体重増加のぐあいがピンと来ず、換算してみてその数値にギョッとした。そこで母にそう言うと、「換算なんかしなくたって、顔みれば分かるじゃない」と。あげくに、テレビに麻木久仁子が出ていたので、「私、麻木久仁子に似てるって言われることがあるんだけど、似てるかなぁ」と言うと、「似てるかもね。でも、あなたのほうが太ってるわ。」もう、そう何度も言わなくたっていいよ〜。

 日本のテレビは健康番組が多いですね。芸能人が出て来て、いろいろ診断してもらう系のとか。私もいくつか観て、結構刺激を受けました。特に、渡辺徹が出てきたものはすごかった。彼、榊原郁恵ちゃんと結婚してから、すごく太りましたよね。あまりの激太りに、郁恵ちゃんは妻として何とかせねばと、お料理や夫の体調管理をすごく頑張ったのだそうです。しかし当の本人は、「俺はやせようと思えばいつでもやせられる」とタカをくくっていて(実際、太っても、そのあとダイエットすれば、5キロくらいは簡単に落とせたのだそうです)、せっかく郁恵ちゃんがカロリーに気を遣った食事を用意しても、夜中に炊飯器のごはんを盗み食べしていたとか。郁恵ちゃんは、夜は炊飯器をガムテープでとめないといけなくなったほどだったそうです。

 しかし、いくらすぐにやせられても、やせるたびにその後リバウンド。リバウンドすると、前の体重より太り、結局体重増加には歯止めがかからず。心筋梗塞で緊急入院・手術となったのが去年の6月… 

 さすがに懲りた徹さんは、これまでの食生活を見直し、手術から半年の今では、すっきりスリムになっていました。

 あの郁恵ちゃんが、夫のために料理を工夫し、料理本を出版するほどまでだったという話しを聞いて、私は感動しましたね。ああ〜、私もしっかりせねば、と思いました。自分の体重もさることながら、やはり夫の体重が気になるわけです。(教えてくれないし、自分でも計らないようです。現実から目を逸らせている!!)

  この番組では、急なダイエットはリバウンドするだけで、それを繰り返すと血管に負担がかかり危険なため、ダイエットは一ヶ月に1キロを目標にして、時間をかけて体重を落とすことを勧めていました。1キロでも脂肪を落とせるなら、心臓への負担は随分減るのだそうです。

 一週間に一日はご飯を食べない日をつくり、炭水化物を減らすだけでも、運動するよりかなり有効なのだそうです。

 う〜ん、勉強になった。

 ちなみに私ですが、シカゴに戻って、時差ぼけで食事のタイミングを逸していたら、3日で2.5キロ減りました。一時的な食べ過ぎによる体重増だったのでしょうかね?  日本滞在中、母は一人暮らしなので、私たち6人家族全員は泊まれず、二人が母のところに、残り四人は近所のホテルに宿泊し、食事は、ほぼ毎日、昼夜外食でしたから。(母のキッチンには、7人分の食器などないし、お鍋も小さいものばかりなので。)それでも、母は毎朝お鍋にいっぱいの煮野菜を作ってくれました。

 リバウンドしたくないので、無理はしませんが、外食のない普段の食生活に戻るだけで、多分間もなく体重は元に戻るのではないかと楽観しています。ともあれ、しっかり気をつけようと思います!


 あれ、時差ぼけの話しのつもりが、体重の話しになってしまいましたね。(汗) 

 

(このはてなブログはベータ版なのですが、やはりまだ使い勝手が今ひとつですね。日付が日本時間で出てしまい、修正できない… これは、シカゴ時間1月12日午後7時50分頃の投稿です。)

 

上沼先生の神学モノローグ

 今年第一号の上沼昌雄先生の神学モノローグです。上沼先生、いつも感謝します。

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神学モノローグ

「神の民への、神の取り扱いは、、、」2013年1月3日(木)

 この数年ユダヤ人哲学者レヴィナスの本を読み、また近年イギリスの新約学者N.T.ライトの一世紀のユダヤ教を中心に聖書全体を読み直していく作業に目を向けている。その結果、基本的には旧約聖書での神の民の神の取り扱いに思いが向いていく。エデンの園からの放出、出エジプト、バビロン捕囚へと向かう神の民の歩みと、そこにある神の計画と取り扱いである。さらに、ユダヤ人が今でもその延長の上に生きているという事実である。アウシュビッツをその流れで受け止めている神の民のしたたかさである。

 暮れから家族のクリスマスをシカゴでということで、長女の瞳宅にきている。ふたりとも風邪を引いてしまって5日ほど滞在を延ばした。そのゆえに、念願であったシカゴの北にあるホロコスト記念館を大晦日の日に訪ねることができた。シカゴの北にはニューヨークに次いでユダヤ人の多い地域である。1970年代にネオナチの行進がなされたことが契機になってこの記念館が建てられたと言う。

 昨年一年間国防省の仕事でアフガニスタンに行っていた次女の泉が、すでにワシントンで仕事を始めていている。ユダヤ人女性で戦後の日本国憲法の起草、特に男女平等の項目に関わったベアテ・シロタ・ゴードンという方が89歳で暮れの30日に亡くなられたというニュースを、年明けに送ってくれた。戦前に父親が音楽家として日本に招かれて、演奏活動と教授活動をしているときにナチスによる反ユダヤ主義のために帰国することができなくなった。ベアテはアメリカの大学に送られた。戦時中両親との連絡を取ることができなかった。日本語が堪能なベアテはマッカーサーの下で、日本で働くことになった。軽井沢に逃れていた両親との再会を果たした。その時に日本国憲法の起草に関わったのである。

 神はご自分の民を散らす。神の民は散らされたところでなお神の民としての忠実さを尽くそうとする。特別なことではなく、神の民としてどこにあってもできるだけ忠実に生き続けることである。バビロンにすでに捕囚の民となった同胞にエレミヤは語る。「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなた方の息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。私があなたがたを引いていったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」(29:5-7)

 まさにこのエレミヤ書を中心にクリスチャンの社会的なあり方を説いている社会学者のJames Davison Hunter の Faithful Presenceについて、暮れに長男の義樹と3時間ほど語り合うことになった。それはなんと言ってもN.T.ライトの視点である、神のFaithfulnessと、イエス・キリストのFaithfulnessと、クリスチャンのFaithfulnessに共通するところがあるからである。どのようなことが起ころうとも、どのような境遇に置かれようが、なお忠実に神の民として生きていくのである。預言者ヨナのようにたとえそのことで納得できないで神に怒ることがあっても、なお神の民として歩み続けることである。

 教会は神の民として歩みをなしているのだろうか。あるいは、単に西洋社会の組織化された一つの機関として存在しているだけなのだろうか。散らされることがあっても、どこにあっても忠実に生きることを求めているのだろうか。あるいは、自分たちの存在とその延命のために神の恵みを求めているだけなのだろうか。

 アメリカと日本の教会を限られたところでしか観ていないが、どうしても教会が自己充足的な方向に動いているように思える。それを支える神学がある。それでもそれが福音的であると言い張ってきた。しかし神の民の歩みを振り返れば振り返るほど、離散の神の民を神がどこかで指導し、散らされる民を神が神の国の建設のためにまたどこかで用いているように思えてならない。そうだとすると神はいずれ、自己充足的な教会の歩みの方向を変えることになる。背き続ける神の民への神の真実さが教会にも現される。そんなときが近づいているようである。

上沼昌雄記 
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 どのようなことが起ころうとも、どのような境遇に置かれようとも、なお忠実に神の民として生きていく… 今年の私のテーマとして与えられている"Take hold of the life that is truly life"と合わせて、考えさせられる。
 今日は、うさたろうさんご夫妻と、やす夫妻の新居を訪問し、とても楽しいひとときを過ごしたのだが、そのときの会話の中で、うさたろうさんが、どなたかが言っておられたこととして、「近年のクリスチャンは小粒にまとまっている」とおっしゃっていた。「自分と自分の家族と神様」という限られた関係を第一にすること、というような意味だったと思う。自分と自分の家族が救われればそれで感謝、にとどまるのでなく、救われた自分が世に出ていって、この世の祝福となろう、という観点が欠如している、というような意味だったと思う。(私はそのように解釈したのだけれど、違っていたら教えてください、うさたろうさん。)私は、「まことのいのち」を生きるということも、ともすれば、「私と神様との個人的な関係」という次元でばかり考えそうになってしまうのだが、何とかしてその殻を破りたいと願わされている。
 歴史上、いつでもどこでもそうなのだろうが、今の日本でも、忠実な神の民が切実に必要とされているはずだ。この世はそうは思っていないとしても。311以降、そして先月の総選挙以降、ますますその感が強まる。
 ばらばらなことを書くようで恐縮だが、今日のうちの霊的形成パスターのブログにあった、「Becoming like Jesus is the way we live out the etenal life now」という言葉も思い出す。神の民の忠実さとキリストの忠実さ… 自己充足的な観点でばかり物事を考えてしまうという殻を破る上での鍵は、キリストに似たものとされること以外にないような気がする。

 今日一日のうちに、読んだり聞いたり考えたりしたことが、まだ断片的だけれど、すこ〜しだけ、自分の中ではつながっていく… 本当に断片的で恐縮です。シカゴに戻ったら、もっと落ち着いて考えたいと思います。とりあえず、メモとして…

あけましておめでとうございます。

 新年あけましておめでとうございます。日本からご挨拶いたします。
 20数年ぶりに日本で迎えるお正月、静かに楽しんでいます。元旦には、中村の母と一緒におせち料理をいただき、義父のお墓を訪れ、それから車で山中湖まで行って富士山を見てきました。間近で見る白い富士山は、とても美しかったです。
 これからまた出かけるため、とりいそぎ、新年のご挨拶まで…

日本に到着しました

 今朝、無事に日本に到着しました。シカゴを発つ日、ちょうど吹雪になるという予報で、はたして予定通りに出発できるのか危ぶまれましたが、他のフライトがのきなみキャンセルになった中、私たちの乗る便は、ちょうど雪の切れ目にあたり、わずか30分遅れただけで出発することができました。まずロスに行き、そこから日本行の便に乗り換え。羽田に今朝5時半ごろ到着。

 羽田から電車を乗り継いで、約1時間で母のところに到着。
 今日は午後から、文京区シビックセンターで、「鼓童」という、坂東玉三郎が演出する和太鼓のパフォーマンスを観に行きます。エミの大学の宿題で、和太鼓の舞台を見てレポートを書く、というのがあるんだそうで。

 母のパソコンを借りているため、使いにくく、日本滞在中はほとんど更新できないと思いますが、とりあえず、無事に到着しましたのご連絡まで…

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