ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

大晦日のパーティーその後

 あるお友達から、大晦日の晩エミは午前一時までに帰宅しましたか?と聞かれた。(こちら参照)はい、ちゃんと一時五分前に帰って来ました。^^(以下はその友人へのメールにも書いたことだけど、私の記録のために加筆してこちらにも転記。)
 トムは幸いにして(?)まだ車の免許を持っていないため、行きも帰りも、彼のお姉さんが送ってくれたそうだ。 またパーティーも、私はてっきり、アメリカにありがちなティーンの騒々しいパーティーかと思っていたのだが、蓋をあけてみたらそうではなくて、トムの家族ともう一人の友人の家族が家族ぐるみで親しいそうで、両家合同(と、あともう一家族)のファミリーパーティーだったそうだ。それに子供の友人数人も招かれた、という形だったとか。そうだとは知らなかったので、エミが出かける前には「もしも会場にビールなどのアルコール類、タバコ、薬物があるのを見たら、すぐにうちに電話しなさい。迎えに行くから」と言ったりしてしまった。とんだ取り越し苦労。(苦笑)何でファミリーパーティーだって先に言わないのよ、とエミに言ったら、エミも行くまで知らなかったんだとか… 
 今回は幸い問題のないパーティーでエミも楽しく過ごすことができたけれど、今後いつかは好ましくないパーティーに遭遇することもあるかもしれない。特に、大学生になれば(あと二年半!)、確実にこのような状況は何度も巡ってくるだろう。「パーティーは一切禁止」にして誘惑や危険から完全に切り離してしまうことは簡単だが、律法主義的に締め付けても違反と怒りを招くだけだ(と聖書は言っている ローマ4:15、5:20)。それよりもバウンダリーをはっきり提示して、あとは自分で判断・選択させる方がいいと思った。 まだ私の目の届くところにいるうちに、自分で判断力を行使することを学び、境界線の中に留まることの自由と平安を体験すれば、親元を離れても、同じスタンダードで自分を律することができるのではないかと。(そんなにうまくいくとは限らないかもしれないけれど。)今回、エミもトムも私が提示した門限をきちんと尊重してくれたことはとても嬉しかった。
 そういうわけで、今回は問題なかったのだけれど、トムの家はうちから徒歩五分くらいで、休日など、時々二人で散歩に出かけたりすることがある。何してるのかなぁなんて、なーんとなく気になったりもする。時には、こっそり二人の後をつけて様子を伺いたいような衝動に駆られることもある。(ひどい親。苦笑) しかし、あまり首を突っ込み過ぎるのも逆効果だろうし、エミを信用しなくちゃいけないと自分に言い聞かせている。
 エデンの園に「善悪の知識の木」という禁断の木を生えさせ、しかしそれを柵で囲むことはせず、ただアダムにそれからは食べるな、食べたら必ず死ぬからとだけ言われた御父のお心を思わされる。アダムにとって罪を犯すことが物理的に不可能なようにすることは神様にはたやすいことだっただろうが、そうするのでなく、アダムが内側からの従順によって神の言葉に従ってくれることを願われた神様のお心…

 今までに、クリスチャンホームに育ちながらも、失敗を犯した若い女の子を何人も見てきた。でも、私が知っている限りでは、その子たちは皆、自分の失敗の刈り取りをする中で、確かに主に触れられ、主に近づき、成長させられている。エミだっていつかは失敗するかもしれない。でも、その失敗を通してでも必ず現される主の恵みに信頼することができると、私は知っている。今までしっかり教えてきたのだからエミが失敗するはずはない、という確信ではなく、失敗することもあるかもしれないが、たとえそうなっても、主の恵みと憐れみによって、最終的には回復させられ、より品性を練られ成長させてもらえるはずだという確信。 これは、私自身の体験からも裏付けられている。私自身、信仰歴が長いくせに、何が主の御前に正しくて何が間違っているのか、何が主を喜ばせ何が悲しませるのか、わかっているはずなのに、失敗したことが何度もある。それでも神様はその都度私にセカンドチャンスをくださり、悔い改めと立ち直りの機会をくださり、そこからさらに前進させてくださった(今もそのプロセスの中にいる)。

 失敗しないで済むならそれに越したことはない。でもたとえ失敗してしまったとしても、それで世界が終わりになるわけではない。(もちろん、恵みがあるからいくら罪を犯してもいい、というわけでもないが。このあたりはローマ6、7章でパウロがじっくり語っている。)親として子供に望むことは、「失敗」しないで「品行方正」を貫くことそのものではなく、たとえ紆余曲折を経ることになっても、それを通して十分に練られ、鍛えられ、真の従順と聖潔の道を自ら選び取れるようになり、主に似た者へと変えられていくことだろうか。(というか、これ、そのまま自分自身に当てはまるのだけれど。汗)

 育児を通して、自分と神様の関係を何度も見させられている。主が私にしてくださっているように、私も子供たちにしてあげたい。

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