ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

Spiritualを何と訳す?

 tomoくんは、今朝五時過ぎに、アトランタへ向けて旅立っていった。tomoくんとは今まで駆け足でしか話したことがなかったけれど、今回はゆっくりできてよかったです。またいつか会おうね〜! タイカレー、ありがとう!

 さて、昨日、編集者さんからThe Language of Godの翻訳原稿に関して、いくつかの質問・コメントがきた。
 まず、Spiritualを「霊的」と訳すのは、幽霊を連想させて違和感がある、とのこと。なるほど。クリスチャンにとっては、「霊的」とはごく普通の単語だけど、一般の読者にとってはやはり違和感のある表現なんだ。実のところ、私もただ「霊的」と訳すのでは多分違和感があるだろうと思ったので、「霊的」に「スピリチュアル」とルビを振るようにしてあったのだが、それでもやはり違和感が拭えなかったらしい。実際、「スピリチュアル」という単語も、今流行の怪しげな分野のことのようでもあり、コリンズ博士が話題にしているものとは一致しない。う〜ん、どうしたらいいかな。たとえば"Spiritual worldview"みたいな感じで使われていることが多いのだけれど、確かに「霊的世界観」では「霊界」の話のようにも思えなくもない。(丹波哲郎さんか? 汗)では「精神的」とするのが無難だろうか。「精神的」だと、「メンタル」みたいな気がしてちょっと違うかな〜と思っていたが、一般の人が「霊的」という言葉から受ける印象よりは、より原語のニュアンスに近いかも。
 考えてみれば、著者が「Spiritual」と言うとき、必ずしもキリスト教用語として使っているのでなく、materialやphysicalの対語として使っている場合の方が多いかもしれない。だとすれば、確かに「霊的」だと違和感があるのも無理はない。誤訳ですらあるかもしれない。こういう、読者が直感的にへんだなと感じる感覚というのは、翻訳する上でも大切にしたい。
 それからもう一つ、とても興味深いというか、嬉しい質問。「キリスト教では、神というのはわれわれ個人個人に関心を持っている、ということなのでしょうか」 はい、そうです! この質問を見て、そうか、やはりクリスチャンではない人が抱く神のイメージでは、「神」が私たち個人個人に関心を持っているというのは、とても不思議で、ピンとこないことなのかもしれないと気づいた。普段なら宗教的なことには特に興味を示さない人でも、科学と信仰という切り口なら本書を手に取ってみる可能性はあるだろう。実際、最近は「フランシス・コリンズ」で検索してこのブログに来てくださる方も結構多い。あらためて、この本を一般の出版社から出版する意義を思わされた。
 
 そういえば、今から10年くらい前、私がホームページを始めて間もない頃のこと、日本のある翻訳者の方から質問メールをいただいたことがあった。彼女は、クリスチャンの心理学者が書いた本を翻訳中だった。(厳密には「下訳」で、翻訳者として名前が出るのは有名な先生だ、とおっしゃっていたっけ。)彼女の質問は、prayer chainとは何か、日本語では何というのか?というもので、prayer chainをネットで検索していて、私のHPがひっかかったらしい。彼女はさらに、キリスト教の罪や救いの概念についても教えて欲しいと言ってきた。翻訳には直接関係ないものの、背景となる概念を理解しておくことは翻訳上でも重要なので、知っておきたいとのことだった。もちろん私は、大喜びで説明させていただいた。あの時彼女が訳していたのは、誰の何と言う本だったのだろう。クリスチャンのカウンセラーが書いたもので1998〜9年頃に出た本だとすると、レス・パロットのこの本かなぁ。ま、それはさておき。もう名前も覚えていないけれど、キリスト教の救いの概念について熱心に質問していたあの時の翻訳者さんを、折に触れて思い出すことがある。もしかしたら今頃、どこかでクリスチャンになっているかもしれないね…?

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