ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

鬼母と主の贖い

 エミやみんがまだ小さかった頃、私は鬼母だった。疲れている時とか子供に苛立たされた時など、自分の感情を制御しきれず、大声をあげて子供を威嚇したり、意地悪く叱ったりということが頻繁にあった。暴力こそふるわなかったものの、そういう衝動に駆られたことは何度もあったし、肩を強く押したりとか、手を振り上げてたたく真似をしたりとか、一歩間違えればまるで虐待母そのものだった。そういった私の言動が子供たちに与えた心理的恐怖は、どれだけひどかったろうと思うと、今でも子供たちに申し訳なくて涙が出てくる。
 親のせいで子供が心身ともに傷ついた、という話は枚挙にいとまがないほどに聞いていた。我が子たちにとっても、この世の中で彼女たちを傷つけるものがあるとしたら、それは他の子供でも、よその悪い大人でも、社会でも環境でもなく、他でもないこの私だろうと思っていた。そう自覚していることは、とてつもなく恐ろしかった。だからあの頃の私の一番の祈りは、「子供たちの霊と魂と身体を、何よりも母親である私の邪悪さからお守りください」というものだった。そう祈らずにはおれないほど、私はひどい母親だった。ふとんの中で、台所の床で、また教会のalterの前で、自分の罪深さに震えつつ、主に叫ぶように、すがるように、祈っていたのを今でも覚えている。
 一ヶ月ほど前のこと、いつものように子供たちとおしゃべりをしている時、どういう話の流れだったか、エミとみんが、「お母さんは昔は結構怖い時があったよね」と言い出した。私は内心ギクッとしつつ、「え〜、たとえばぁ?」としらばっくれて聞いてみた。エミとみんは「そうだなぁ、たとえば〜〜の時とか」「〜〜っていうこともあったよねー」と、次々と明るく言った。そう、確かにそういうことがあったのだ…
 動揺しつつ、私も自分から言った。「あと、〜〜の時もあったよね。お母さん、ひどかったよね。あの時は本当にごめんね。お母さんも若くて未熟だったよね…」 「あー、それ!覚えてる! だけど、お母さん、今ではすっかりそういうことなくなったよね」とみん。
 私は申し訳ない気持ちと恥ずかしい気持ちで一杯になりながら、こみ上げる涙を押さえつつ、消え入りそうな声で娘たちに言った。「神様のおかげで、今ではお母さんも少しは成長したのかもしれない。あの頃のお母さんの一番の祈りは、あなたたちの心と霊と身体が、お母さんの悪から守られますようにっていうものだったのよ…」
 「ああ! だからあの頃のお母さんは、いつも教会で泣きながら祈ってたんだね!」エミが納得したような笑顔で言った。「お母さんのその祈りは、神様は確かに聞いてくださったよ!
 私はそれを聞いて、もう涙を押さえられなかった。娘たちの前で、ボロボロ涙がこぼれた。神様は、本当に私の祈りを聞いてくださった…

 このブログを読んでくださっている方たちは、中村家の子供たちはみんないい子で、中村家は上手に子育てしていると思っておられるかもしれない。しかし、これはまったく私の手柄ではなく、ただただ一重に、神様の憐れみによるものなのだ。未熟なままで母親になり、子供を育てようとしても躾ようとしても、私自身の悪が溢れ出てきてしまい、私は途方にくれるばかりだった。しかしそんな私の弱さに、神様が憐れみを注ぎ、子供たちを守ってくださった。本当に、守ってくださった。さらに、具体的な助けとなるべく、さまざまな有益なリソースも与えてくださった。(中でも、エミが十歳の時に『Boundaries with Kids(聖書に学ぶ子育てコーチング)』に出会ったことは、私の育児に計り知れない影響を与えた。)
 今私が享受しているもったいないくらいにありがたい子供たちとの良い関係も、すべて神様がくださったもの。感謝にたえない。もちろん、父親であるぼぼるパパの存在も大きい。母親の不安定さを埋め合わせて余りあるほどに安定していた父親の存在は、子供たちにとって重要なアンカー(錨)となっていたことだろう。ぼぼるパパがそのような父親であれるよう、主が彼を導き支えてくださっていたことにもただ感謝だ。
 エミやみんは常日頃から、自分たちの親子関係は友人たちの親子関係よりも、はるかに安定して愛と喜びと感謝に満ちたものであると認めている。友人たちがなぜいつも親に反発し、喧嘩ばかりしているのか理解できないと言っている。私はエミたちがそう言うのを聞くにつけ、彼女たちは幼少時代に私が鬼母だった時のことは覚えていないのだと思っていた。でもそうではなかった。ちゃんと覚えていたのだ… 
 恥ずかしい思いと同時に、それ以上に感謝だったのは、この日の会話を通して、私たちの親子関係が今こんなにも祝されたものであるのは、一重に神様のおかげであると子供たちが知ってくれたこと。親は不完全だけれど、完全な天の御父がこの家族の真ん中におられ、私たちを支え、守り、導き、憐れみをかけてくださっていたのだと、改めてエミとみんが知ってくれたこと。
 私はこれまで、たくさんの失敗をしてきた。しかし神様は、イスラエルに対して憐れみ深くあられたように、私に対しても信じられないほどの憐れみをかけてくださり、御子イエスの血潮を通して、失敗の一つ一つを贖ってくださった。私は、これからもまだまだ多くの失敗をしてしまうだろう。少しでも避けたいと心底願うけれど、私の中に巣食う罪の性質が、言葉において、行動において、態度において、また思いにおいて、日々数々の罪を私に犯させていることを、嫌と言うほど思い知っている。にもかかわらず、朝ごとに新しい主の憐れみと恵みが差し出されている。そのことを思うにつけ、私は驚嘆と感謝で、息が止まりそうになる。

 また、地上のどの国民があなたの民イスラエルのようでしょう。神ご自身が来られて、この民を贖い、これをご自身の民となさいました。(歴代誌第一 17:21)

 この御言葉は、中村家にとっても真実です。ただ主の御名だけがあがめられますように。

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