ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

「贖いの時間」

 今朝は、クラウド&タウンゼントが『スモールグループから始めよう!』の中で述べていた、「贖いの時間」について思いを巡らせている。

==引用開始(pp.72~74)==

…つまり、健全な支援グループでは永遠を垣間見ることができるということです。適切で支援的な環境では、日々の責任が一時的に消え去り、その間に成長と癒しが起きるのです。グループの外での現実生活を否定するという意味ではありません。グループは、参加者が本当の自分と、自分のことを気にかけてくれる他者、そして人生で真に大切なことをじっくりと経験するために、充分な時間と場所と安全な環境を提供するという意味です。今日の事件や雑用、やらなければならないことなどが視野から消え、愛や喪失、成長や痛み、そして自分自身についての真実が見えてきます。
時間は、良いグループを造り出すために恵みや真理と同じくらい必要な要素です。時間とグループのプロセスとの関係を理解すればするほど、あなたのグループはより良いものになるでしょう。私が昔の友人といともたやすく話をすることができたのとは対照的に、問題や葛藤について誰かと話をしたいと思いながらも、実務的なことや日々のお決まりの仕事、あるいは天気の話をするだけで終わってしまった、ということがあなたにもありませんか。会話に時間が割り込んで来て、あなたが必要としていたものが失われてしまったのです。…

(中略)

 …それは神と参加者が顔と顔をつきあわせ、いろいろなやりとりをする大切な時間であり、実生活での時間とは性質が異なります。「贖いの時間」です。この用語についてもう少し考えてみましょう。
時間というこの抽象的な概念は、基本的に出来事が過ぎていくことやそれを測ることを言います。誕生する、成長する、愛や喜び、喪失、痛みなどを経験する、家族や社交の場を見つける、仕事や職業を見つける、そしてこの世を去る、などの出来事です。しかし、私たちが持っている、移り行くものとしての時間の認識は、神が本来意図していたものではありませんでした。神は永遠の中に生きておられ、時間の経過に制限されるお方ではありません。神にとってはすべてが永久に存在しており、すべてが「今」です。神が私たちを創造されたとき、年齢にも病にも死にも影響されることなく、共に永遠の中に生きるよう意図されました。
しかし、アダムとエバを通して私たちはみな罪を犯し、神と神のいのちから切り離されてしまいました。私たちは永遠の苦難と断絶に定められるところでした。しかし神は憐れみにより私たちをエデンの園から取り出され、時間が支配する世界に置かれました。贖いの時間はそのときに始まりました。しかしそれは永遠に続くわけではありません。神が全てのものをご自身に買い戻されるときに終了し、始まりのときにそうであったように、全てが再び神とともに永遠に存在するようになります。イエスもこう言われました。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」(黙示録二十一・6)。
しかし、時間は私たちを罰するためのものではありません。神が私たちを永遠から取り出されたのは、私たちに腹を立てたからではありませんでした。むしろ私たちを守って下さっていたのです。神は、私たちが永遠に破綻した状態にいるのでは辛いことをご存知でした。私たちが修復され、癒され、赦され、成熟する場所が必要であるとご存知でした。そして時間をそのような場所としてお造りになったのです。ちょうど病院の隔離された手術室のようなものかもしれません。安全に保護された場所で、医者の熟練した手によって癒しがもたらされるのです。外科医のように、神は私たちのいのちと心を時間というプロセスを通して贖われます。その働きが完了するとき、私たちは神とともに再び永遠に入ります。贖いの時間は、この過程のための場所を提供します。私たちの安全地帯です。

==引用終わり==

 日々の責任が一時的に消え去り、人生で真に大切なことをじっくりと経験する安全な場所と時間… 本当に必要だと思う。
 たとえば、何かとても悲しいことが起こるとする。その悲しみと痛みを、じっくりと感じる必要があるけれど、同時に、悲嘆にくれて日常生活ができなくなるのも困る。どんなに悲しいことがあっても、私は朝起きて、子どもたちのお弁当を作らなくてはならない。悲しいことが起きたからといって、私の義務や責任を放棄するわけにはいかない。でも、そうやって自分を追いつめてしまうと、うつになってしまうかもしれない。だから、私のことを真に気にかけてくれる信頼できる人のところにいって、心の重荷を降ろさせてもらう。重荷を降ろすのは、ある意味一時的なことで、登山の休憩所のようなものかもしれない。一旦降ろすけれど、休憩したら、もう一度その荷物を自分で背負って、山頂めがけて歩きだす。
 私も、時々荷物を降ろして休憩して、それからもう一度背負って、歩く。

 そしてどんな重荷を負っていようとも、イエス様とともにくびきにつながれているということは、とてつもなく感謝なことなのだ。
 
 …こんなことを書きながら、ある方のことを特に心に覚えて祈っている。その方は、暮れにとても悲しい現実に直面された。日々悲嘆にくれたくなるようなことだろうと思う。しかしその方は、多くの大切な責任を負っておられる。そして、この状況の中でも、その責任を忠実に果たしておられる。この方が、折にふれて「贖いの時間」を経験し、心痛む現実を直視しつつも力を得て歩き続けることができますように、主の助けと励ましがありますようにと、心から祈っている。

ホーム日記ミルトスの木かげで(最新)