ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

霊的にふるまう

 先日、Viviさんがコメント欄に「『スモールグループから始めよう!』を読んで、『痛み』を受け止めるということがどんなに大切で必要なことかを教えられました」と書いてくださった。(4/30のコメント。 Viviさん感謝します!)私自身、『スモールグループから…』からは、人との関わり方について、また自分自身(あるいはキリストの身体の個々の器官や身体全体)の成長を考えるにあたって、多くの示唆と気づきを与えられた。
 中でも、第55章「霊的にふるまう」は非常に身につまされたことの一つだった。この章で著者は、クリスチャンたちがスモールグループの中で互いに対して「霊的にふるまう」ことがしばしば見られること、そしてそれがどれだけ人々の成長の邪魔をしているかについて語っている。そしてここで言う「霊的にふるまう」とは「崇高で霊的な説明やコメントに見えて、その実は役に立たない、紋切り型の答えを与えること」と定義される。
 例えば、苦しみや試練の中にある人に対して「神さまは全てのことを働かせて益としてくださるから大丈夫よ、主に信頼しましょうね」と言う。あるいは愛する人を亡くした人に対して「悲しまないで、○○さんはもう天国にいるんだから。またいつか天国で再会できるのよ」と言う。どちらもまったくその通りだし、言っている方は精一杯善意のアドバイスをしているつもりに違いない。では、なぜこれが問題なのか。それは、その人が本当に取り扱わなければいけない真の問題からその人の目を逸らさせ、通るべき成長と成熟の過程を妨げてしまうからだと著者は言う。さらに、そのような「霊的な回答」は、聖書が実際に提供している真の回答からは往々にしてずれたものであることも多いと指摘している。
 誰かが何らかの問題を抱えているとき(喪失、試練、罪との葛藤、等など)、その人は時間をかけて恵みと真理を受け取りつつその問題に対処する必要がある。自分の問題についてその人が心を開いて語り出したときに(多分それはその人にとって非常に勇気のいることだったろう)聞き手がいかにも霊的な「模範解答」をポンと差し出してしまうと、その人はそこで「そうね、その通りね、ハレルヤ」と言って引き下がらざるを得なくなる。本当なら、その人の葛藤なり何なりの根の部分を掘り起こし、主の光の中に差し出し、じっくり取り扱う必要のある問題があるかもしれないのに、表面にさっと漆喰を塗って、とりあえず白くなめらかにしておしまいにしてしまうことになる。
 例えば誰かがある事に関して不安や葛藤をずっと持っていたとする。そしてそのことをクリスチャンの友達に相談する。すると、第一ペテロ五章七節を引用して「一切を神に委ねましょう、神さまが心配してくださるのだから」と言われる。その通りだなと思って友人と一緒に祈る。でも祈ってもまだ不安がなくならない。そこでまだ不安があると伝える。すると今度は、もう委ねたのだから、そのことは考えちゃだめよと言われる。主に目を留めて、ポジティブなことを告白しましょう!と言われる。その場は「そうね」と言って一生懸命主にある信仰を告白してみる。友人はそれでいいのよと言う。一時的に不安がなくなったように感じるかもしれないが、しばらくするとまた戻って来る。だけどもう、友人にはそのことを言えない。言っても同じことを繰り返されるだけだから。あるいは不信仰者のレッテルを貼られてしまうかもしれない。うんざりされて、もう付き合ってもらえなくなってしまうかもしれない。 そこでその人は表面だけ取り繕って心を閉ざす。自分の心のうちの真実を打ち明ける場所を失い、心の奥に穴を掘って埋めてしまう。埋めてしまったものは、腐敗して後からもっと悪い形で吹き出してくるだけかもしれないのに…
 この章を読みながらこんなことを考え、私は本当に身につまされた。私自身、「紋切り型の『霊的な』模範回答」を差し出した側にも、差し出された側にもいたことがある。私が「模範解答」を差し出してしまった相手に対しては、本当に申し訳ないことをしてしまったと泣きたい思いがした。また自分がそれをされたとき、どれだけ絶望してしまったことだったか。今になって、あぁ、そういうことだったんだ、とわかった。
 そしてまた、この「霊的にふるまう」ということを、自分自身に対してもやってしまうことがしばしばあることにも気づかされた。悩みのある時、苦しくて早く抜け出したいと思う。あまりに苦しいから、手っ取り早く励ましになりそうな御言葉をつかんで、「信仰によって」告白して、ハレルヤ!と叫んで「信仰によって」その問題は解決したと「信じる」。一見霊的で、信仰深く、敬虔であるようでいて、実は時間をかけて正面から自分の問題に立ち向かう勇気も忍耐もないだけかもしれないのに。本当の問題から目をそらして「霊的にふるまう」ことで安易な解決を得ようとするなら、結局同じ問題が場所と形を変えて何度も堂々巡りで繰り返されるだけ。同じ問題が繰り返し出てくるのは、必ずしも「信仰が足りない」からではなく、対処すべき問題を認知せず、それを放置しているからなのかもしれない。

 神さまは確かに一瞬にして私たちの傷や痛みを癒し、問題を解決することのできるお方だし、御言葉にはそれをする力があることも100%信じている。だけど、神さまが選ぶやり方はほとんどの場合が「一瞬にして解決」するものではなく、時間をかけて根っこから私たちを取り扱うことで成長への道を歩ませることなんだということを忘れてはいけないと思った。

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