Shadowlands
2月14日の日記で話題にした、CSルイスがアメリカ人女性ジョイと出会い、結婚してからわずか3年で彼女と死に別れるまでを描いた映画『Shadowlands』(邦題『永遠の愛に生きて』)のビデオをついに観た。CSルイス(ジャック)にアンソニー・ホプキンス、妻ジョイにデブラ・ウィンガーが扮し、普通にラブストーリーとして観ても十分胸を打たれるけれど、これがあのCSルイスのことかと思うと、一層考えさせられるものがあった。
ガンでジョイの余命は長くても数ヶ月と医者に宣告されつつ結婚した二人。ジョイの体力が少し回復してきたある日、二人は小さな旅行に出た。幸せなひと時を楽しみながら、ジョイがジャックに言う。
「この幸せは、いつまでも続くものではないのよ。」
「せっかくの幸せを台無しにするようなことを言うのはよそうよ」
「でも大切なことだから。現実を見つめることは、しあわせを台無しにするのじゃなくて、本物にするの。」(このあたりのセリフは、記憶からなので、あまり正確ではないかも。)
そしてジョイがくだんのセリフをジャックに言う。
「後で感じる痛みは、今のこの幸せの一部なのよ。そういうものなの」(The pain then is part of happiness now. That's the deal.)
ジャックがジョイを失う時に感じる痛みは、それだけ彼がジョイを愛した証拠… ジョイの死後、ジャックが回想して言う。「今のこの痛みは、あの時の幸せの一部なのだ。そういうものなのだ。」 多分ジャックは、痛みを感じるたびに、自分がジョイを愛したことや二人で過ごした幸せな時間を思い出したことだろう。もしも愛さなかったなら、後で感じる痛みもないけれど、愛し合った幸せな思い出も残らない。
他に特に印象に残った場面。ジョイが初めてジャックの家を訪ねた時のこと、ジョイはスペインを題材に自分が書いた詩をジャックに披露する。「でも私、スペインには行ったことがないんです」「個人的体験が全てではないから」とジャック。するとジョイは、「あら、私はそうは思いません。むしろ、個人的体験こそ全てじゃないでしょうか。」「では、読書などは時間の無駄だと?」「無駄だとは言いませんが… 読書は安全ですよね。読むだけなら傷つくこともないし…」 優れた思索家であり文筆家であるルイスに、実際に体験することの意義を訴えるジョイ。しばらくのやりとりの後、ルイスは言う。「痛みについて、こうも解釈できると思うのですよ。痛みとは言わば神が用いられる道具で…」「『聞こえない世界を呼び覚ますための神のメガホンである』」ルイスの言葉を続けるジョイ。「私の本をよく読んでおられるようですね」「ええ、ほとんど読みました」 ルイスには『痛みの問題』という有名な著作があった。でも、もしかしたらジョイにとって、それは実際には痛みを体験したことのない人による机上の空論のように思えたのかもしれない。ジョイは続けて問いかける。「ジャック、あなたは本当に傷ついたことはありますか?」
もう一カ所。ジョイの死後、ジャックの友人の大学教授たちやチャペルの牧師が紋切り型の言葉を並べて訳知り顔で彼を慰める。するとジャックは噛み付くように反論し、うわーっと叫んで皆を驚かす。その後、帰宅したジャックは、屋根裏部屋で一人、うちひしがれているジョイの息子ダグラス(8歳くらいの少年)を慰めようとする。ダグラスは言う。「天国って信じる?」「ああ、信じるよ」「僕は信じない。もう、二度とお母さんに会えないなんて、悲しくてしょうがない」涙をポロポロこぼすダグラス。するとジャックも激しい嗚咽と共に「私もだよ…」と、ダグラスを抱きしめて二人で声をあげて泣く。この場面、抱き合って泣いている二人を、両腕で抱え込んで一緒に泣いておられるイエスさまが見えるような気がした。イザヤ書の「彼は悲しみの人で、苦しみを知っていた(a man of sorrows and acquainted with sufferings)」という御言葉を思い出した。
何ていうのかな… この映画を通しても、イエスさまが肉を取られ、生身の人間として私たちと共にこの世で生き、私たちの日常の生活を分かち合ってくださったことについて、もう一度思わされた。(映画の中では信仰的なことはほとんど出てこないのだけど。)『ナルニア国物語』『キリスト教の精髄』『悪魔の手紙』といったキリスト教書の古典をいくつも生み出したCSルイス。しかし彼にとってイエスさまが一番近くなったのは、その後に出会ったジョイという一人の女性との関係を通してだったのかもしれない。
(余談ですが、ここに登場するダグラスーールイスの義理の息子ダグラス・グレシャムーーは、今日本でも公開中の映画『ナルニア国物語』の共同制作者なんですよね。)