ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

有限と無限

 『博士の愛した数式』のDVDをついに観た。原書を読んだ直後なので、原書と違う設定があると最初のうちは気になったが、あれはあれでよかったのかもしれない。(それにしても、寺尾聰さんの博士は、やっぱりスマート過ぎ! 笑) 原書の中では少しだけほのめかされていたようなことが、映画の中ではもっとはっきり描かれていて、ある意味わかりやすくてよかったかも。オイラーの数式の意味とか。原書ではいくつかの伏線が敷かれながら、最後までそれがどこにも到達しないまま終わってしまった、みたいな、ちょっと欲求不満(?)を覚えていたので、映画でそれがいくらか解消された感じ。ただ、博士と義姉の関係は、ややクローズアップされすぎだったかなぁ?(原書の義姉からは岸田きょうこさんみたいなイメージを描いていたので、朝丘ルリコさんの美しい義姉にちょっとビックリでした。笑)
 細部はともかくとして、全体として思わされたのは、有限と無限の世界のつながり、みたいなものだろうか。博士の80分しかもたない記憶は、無限に続く時間の世界からみれば、ほんの一瞬のようなもの。過ぎてしまえばなくなってしまう。しかし、だからといってその有限の80分には価値がないわけではなく、一瞬一瞬を、一時一時を、精一杯幸せに生きることの意義。
 折しも、聖書通読でちょうど伝道者の書を読んでいて、そこでもソロモンが捉えていた有限と無限の世界のつながりのようなものを思わされていた。
 空の空、すべては空、とソロモンは言う。正しい人にも悪人にも、知恵のある人にも愚かな人にも、待っている結末はみな同じで、なんとむなしいことかと彼は言う。しかしながら、絶対者である神の存在を認め、神を恐れるとき、永遠と比べれば一瞬以下でしかない私たちの人生にもperspectiveが与えられる。 そして、日々の労苦の中にしあわせを見つけ、自分の受ける分を神の賜物として喜んで受けることができる。
 博士は、私たちが紙の上に描く「直線」は、実は本物の直線ではなく、点と点を最短距離で結んだ「線分」なのだと言う。しかし、線分でありながら、私たちはそれを通して、その背後にある「直線」、つまり無限に左右に伸びていく永遠の世界を垣間見ることができると言う。
 この地上での私たちの存在も確かに有限で、いずれ過ぎ去るものだけれど、その背後には確かに無限のお方、永遠のお方がいて、私たちの地上における有限のいのちにさえも意義を与えてくださる。博士の80分という有限の世界が、「私」や「ルート」のおかげでもう一度活力と幸せに満ちたものになり、連綿と流れる時間の世界の中に居場所を見いだしたように、私たちも創造者を知り、そのお方を恐れつつ生きる時、私たちの背後でこの有限のいのちを支えておられるお方の、永遠のいのちが注ぎ込まれる…
 そんなことをね、思ったのでした。

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