ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

とりなし

 今朝8時過ぎ、シカゴトリビューン紙で「サトウノゾム」という日本のお笑い芸人がシカゴに来てオバマ氏の物まねをし、それが結構似ていてウケているというくだらないけど面白い記事を読んでいたら、エミから電話がかかってきた。
 「I have a HUGE favor for you, Mom.(ものすごく大きなお願いがあるの)」
 どうしたかと思ったら、今日みんがスペイン語の大事なテストがあるのに、テストに必要なノートを持ってくるのを忘れてしまったから、届けてくれないかと言う。
 「She forgot to bring her cell, so I'm calling on behalf of Miho.(みんは携帯も持ってくるのを忘れたから、私が代わりに電話しているの)」

 私は普段、子供たちが忘れ物をしても、滅多なことでは学校に届けてあげないことにしている。忘れるたびに私が届けていたら、自分が学校に持っていくべきものについて、いつまでたっても本人が責任をもって気をつけるようにならない。一時期、忘れ物&届け物が連発したことがあり、そのときに私ははっきりと子供たちにそのように言ったのだ。
 エミはそのことをわかっていたから、私にお願いする時も、当然持ってきてね、という調子ではなく、「お母さんに面倒をかけさせることになるのはわかっているので申し訳ないけれど、持ってきてもらえませんか」のようにとても姿勢が低かった。
 私は、妹のために頭を下げているエミの姿に感動した。そして、「とりなし」って、こういうものなんだ、と思わされた。誰かに代わって、自分が身を低くして懇願する…
 しかもエミは、3限めと4限めの間の休み時間に校舎の外に出て待っているから、その時間に持ってきて欲しいという。その後エミがそれをみんに届けるから、と。みんの今日の時間割によると、教室が駐車場から遠い場所なので、取りに外に出る暇がないけれど、エミはちょうどその時間は駐車場の近くの教室にいるから、そうすることに問題はないらしい。それにしたって、自分の休み時間を犠牲にして、寒い中を風に吹かれて外で待つというのは決して楽なことではないだろう。誰かのためにとりなしをするというのは、自分の側にも何らかの犠牲が生じる覚悟をすることも含まれるのかもしれない。
 私はこの姿にとても心を動かされた。たかが人間の親に過ぎない私がこのように心を動かされるならば、天の御父は、私たちが兄弟姉妹のために神の御前に身を低くして、自分の犠牲をも覚悟しつつとりなす時、その憐れみに満ちたお心をどれだけ動かされることだろうか。

 エミが電話をしてきた時、もしも「みんたらホントにどうしようもないよね、また忘れ物しちゃってさー。もっと気をつけてもらわなくちゃ困るよね。悪いけど、お母さん、持ってきてあげてくれる?」みたいな言い方をしていたらどうだろう。重要なテストだというので、多分持っていってあげただろうけど、こんなふうには心を動かされなかっただろう。自分も一緒になって批判する側に立っていたら、とりなすことにはならないのだ。
 
 大統領選挙を前に、この国のためにとりなさなくてはと思わされていた。オバマかマケインかという問題を越え、主の御心がなるようにとりなさなくてはと思い、そう祈っていた。しかしそう祈るときの私の態度は、決して今日のエミのようではなかった。この国の国民、特にクリスチャンたちに対して、批判めいた気持ちを持っていたことは否めない。そんな高慢な態度から出てくる「とりなしの祈り」など、どうして主の御前に届くだろうか。主のお心を動かすことができるだろうか。自分が裁く側に立っていたら、真のとりなしなどできやしない。まずはとりなす者の心が砕かれなくてはならない… そんなことを思わされ、反省させられた朝だった。

ご覧ください。私たちは罪過の中であなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないのに。(エズラ9:15)

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