タイヤ事件と(非)奇跡
一ヶ月くらい前に、夫と二人で買い物(Hマート)に出かけたときのこと。帰り道、高速道路を走っていたら、ダッシュボードのタイヤの空気圧が下がったことを示す灯りが点灯した。夫が運転していて、特に異変を感じるほどではなかったので、高速を降りたらガソリンスタンドに寄って空気をいれよう、と二人で話していた。
ところが、高速を降りたとたんに、車がガタガタいいだして、これは明らかに、空気が漏れただけではなく、パンクしているようだと分かった。かなり危険な感じだったのだけれど、幸い高速を降りてすぐのところにDiscount Tireというタイヤ屋さんがあるため、そこにソロソロと入った。(普通のスピードではとても走れない状態だったので、のろのろ運転だった。)
私は、「すごーい!高速を降りたとたんパンクするなんて! 高速を走っているときにこんなことになってたら、危なかったね。大変だったね。奇跡だよ〜! 神様が御手を置いて、私たちを守ってくださったんだね!」と感動の声をあげた。
ところがぼぼるパパは、「う〜〜〜ん。神様が関与してくださっていることは否定しないけど… 奇跡じゃないよ。単に、物理法則にのっとった現象だから。早いスピードで走っていたら、タイヤの一つの空気が抜けても、車両の重さは残りの三つにかかるからそう簡単にはバランスを崩さないけど、スピードが遅くなると、パンクしたタイヤにも重さがかかるから、それであんなにガタガタしたんだよ。高速を降りたとたんにガタガタ言い出したのは、普通のこと」
せっかく人が「神様だ!」と感動してたのに、その感動に水をさすようなことを…(笑)
でも、夫の言い分は、まったく正しい。私たちが奇跡だと思うことの多くは、実際には超自然的な奇跡というより、神様が創造の御業の最初から定めたとおりの自然法則にのっとって起こっているのであり、単に私たちがその背後にあるメカニズム(神様が定められた秩序や法則)を知らない、ということなのかもしれない。つまり、私たちが日常生活の中で、わりと簡単に「奇跡だ!」と言うのは、実は「私には説明できない」を、違う表現に言い換えたに過ぎないのかもしれない。
だから、「奇跡ではない」とは、決して、「神様がなさらなかった」「神様はいない」という意味ではないのだ。むしろ逆。「科学的」ということは、「神が不在」という意味ではなく、神様が創造の最初から定められた秩序を、人間に現時点でできる範囲で説明したもの、ということなのだと思う。
ぼぼるパパや、クリスチャンの科学者にとって、神様の素晴らしさを知り、それを讃えるのに、超自然的な奇跡は必要ない。自然そのものが、私たちの理解と想像を越える素晴らしい神様の御業の存在証明だからだ。「奇跡」でなければ、それは神様の御業ではないかのように考えるなら、それはむしろ、神様の素晴らしい創造の御業と秩序に対する冒涜でさえあるようにも思う。
もちろん、「奇跡」なんて存在しないと言っているのでもない。フランシス・コリンズが「ゲノムと聖書」の中で言っていたように、私たちがしょっちゅう「奇跡だ!」と言うほどには、本当の奇跡はそう多くはないだろう、ということ。そして、本当の奇跡が起こるときは、それもまた神様の素晴らしい愛と御力の現れであることに間違いない。
先日のタイヤ事件は、超自然的な奇跡ではなかったけれど、偉大なる神様のもとで生かされている喜びに思いを馳せることのできる、素敵な出来事となりました。めでたしめでたし。^^