ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

2012 Reflection(2) ~Tension~

 (昨日の続き)
 The King Jesus Gospelの邦訳原稿、夕べ、無事に送信しました!

 さて、昨日は、スピリチュアル・ディレクションと、「私たちは、他者への祝福となるために召されている」と教えられたことについて書いた。
 これと並行して、今年、私にとって大きかったもう一つのことは、Facebookで行っているNTライトのHow God Become Kingの読書会だった。数年前に初めてNTライトの"Surprised by Hope"を読み、何かとても大切なことが書かれている、私にも必要なことが書かれていると感じたものの、とても充分には咀嚼しきれず、悶々としていた。そこに、数年前から神様がいろいろな出会いを与えて準備をしてくださっていたのだが、その機が熟したかのように、巣鴨の小嶋タカ先生、神戸の川向さん(a.k.aミーちゃんハーちゃん)と一緒に、NTライトの読書会をやりましょう、という話しが持ち上がった。告知したら、NTライトに詳しい高橋秀典先生、芦屋の鎌野直人先生、そして英国でライト師のもとで博士課程におられる山口さんをはじめ、多くの方々が応答してくださり、4月からスタートした。一人で読むには難しくて歯が立たなかったものの、これらの方々と一緒に読むことで、分からないこともたくさん教えていただいたし、皆さんの洞察からも多くを学ばせていただいた。もちろん今なお、学ばせていただいている最中である。
 さらに、私が何かにつけてお世話になっている上沼先生も、実はライトに関心を寄せておられることを知り、上沼先生も読書会にお誘いした。そして、この読書会とも関連して、小嶋先生、高橋先生、上沼先生、小渕さんが、11月にお茶の水でNTライトセミナーを開催される運びになった。(そのときの様子は、リバイバルジャパンの記事にもなった。)
 この一年間は、NTライトの本や、また現在翻訳中のスコット・マクナイトのKing Jesus Gospel(NTライトとダラス・ウィラードが前書きを寄せている)から、実に多くの示唆を得た。昨年の9月ごろ、ライトやマクナイトの本を読んで、何だか自分がこれまでたて上げてきた信仰が土台から揺るがされているようでショックだ、というようなことを書いたが、今ではもう、それについて不安を感じていない。むしろ、ワクワクしている。なんというのか、クリスチャンになって私は35年になるけれど、ここにきてようやく、「福音」が聖書全体からメイクセンスし始めてきたというか… このあたりのことは、また年が明けてから、追々書いていきたいと思うのだけれど…

 そして、これらの学びや導きの中から、今、新たに浮上してきたテーマがある。それは、「テンション」。神様のミステリー(奥義)と言ってもいいかもしれない。(11月のブログ記事で、ちょっとそれに言及した。)聖書の中には、白黒つけにくいコンセプトや物事の流れ、また矛盾しているかのように思えることもいろいろ出てくる。「福音」が聖書全体からメイクセンスし始めてきたと書いたばかりだけれど、それでも、聖書を読めば読むほど、逆に分からなくなることもある。先週のコネティカットでの悲痛な事件に直面したり、それ以外にもこの地上で現在進行形で起こっているさまざまな悲惨な出来事に思いを馳せると、ただただ困惑し、葛藤を覚えることも多々ある。

 先週の土曜日のブログ記事で、コネティカットでの事件を受けて、ある英語ブログからの引用を紹介した。ここに、ざっと日本語訳を載せます。
 

そして、私たちは待つ。来てください、インマニュエル。
しかし、あきらめたように受け身になって待つのでなく、絶望の中で待つのでもない。祈りつつ、期待と希望を持って待つ。「御国が来ますように。あなたのみこころがなりますように」。私たちには、その御国の代理人・代行者となることが求められている。
アドベントの季節、私たちは自分の中や周囲にある痛みや不完全さを無視することはしないし、私たちを変えることのできるキリストの力や、新しい方法で物事を行うことの美しさやそこから生まれてくる善きものを無視することもしない。私たちは希望のうちに待つ。イエスの御国はいつの日かこの世を本来の姿に回復させてくれるのだと知っているがゆえに、希望のうちに待つ。そして心の底から愛する。正義を推進する。飢えている人たちに食べ物を与え、裸の人たちに衣服を着せる。深く愛し、犠牲的に与える。そして、詩篇の作者が言ったように、平和を求め、それを追い求める(詩篇34:14)。
私たちはこれらのことを、最初のアドベントを通して与えられた力と、次のアドベント(イエスの再臨)を待ち望む希望のうちに行うのだ。 来てください、インマニュエル。

 この、「待つ」ことの中にあるテンション。イエスは「完了した」と言われたのに、まだ究極の完成には至っていない世界に生きるテンション。最初のアドベントと、次のアドベントの間にいる私たちには、brokennessとwholenessのどちらもが現実だというテンション。NTライトも言っていたように、この世の問題への解決として召された私たち自身が、この世の問題の一部になってしまうというテンション。白でもなく、黒でもなく、かと言ってグレーのうちに留まるわけでもないというテンション。
 このテンションの中で、神の民として、キリストの弟子として、いかに生きるか。それが、今、私の中で浮上してきているテーマ。来年に向けて、神様から与えられたチャレンジ。そして、来年の御言葉として与えられた箇所は、第一テモテ6章18節。「まことのいのちを得るために」。この箇所、私は英語の表現のほうがピンとくる。

..., so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.

TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.

 take holdというのは、ただ「得る」ことではなく、自らつかむこと。目の前に差し出されたものをただ受け取るのでなく、手をのばしてしっかりつかむこと。自分の中に根付かせること。 そしてthe life that is truly life.つまり、life(いのち)と一口に言っても、まことのいのち(実に本物のいのち)と、そうでないいのちがあるということ。神様が私たちに与えてくださるいのちは、ただ身体が生きているというだけではなく、魂が、霊が、主にあって生きているということ。良く生きる(live well)ことを知っているいのち。そのいのちをつかむこと。このいのちは、きっと、上述のようなテンションの中でいかに生きるかを知っているいのちではないだろうか、と思うのだ。それを、神様に教えていただきたい。そこに導かれたい。そして、それをtake holdしたい。自分だけのためではなく、他者の祝福となるために。それが、来年に向けて、私に与えられた思い。

 長くなりました。最後まで読んでくださってありがとうございます。今年のブログエントリーは、これが最後かもしれません。今年はあまりブログを書けませんでしたが、読みに来てくださってどうもありがとうございます。来年はもう少しアウトプットを増やしたいなと思っています。

 皆様、どうか祝されたクリスマスを、そして喜びに満ちた新年をお迎えになられますように。
 来年もよろしくお願いいたします。

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