ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

Boundaries in Marriage

 Boundaries in Marriageの邦訳ですが、年内出版を目指していよいよラストスパートになってきました。関係者の仕事のスケジュールの都合もあり、ここに至るまでずいぶん時間がかかりましたが、もうすぐです。
 でも、まだ邦題も決まっていません。私としては、『夫婦をつなぐ境界線』みたいなものがいいかな〜と思っていますが、恐らく、実際にはもうちょっとキャッチーな感じになると思います。
 「境界線」というと、分けるもの、区別をつけるためのもの、というイメージだと思います。実際そのとおりとも言えます。一方、夫婦というものは、聖書によると、「その父母を離れ、ひとつとなる」とあります。とすると、夫婦関係における境界線というものは、そもそも成り立たないのでは?と思う方もいるかもしれません。しかし著者は、「『ひとつ』になるためには、『二人』が必要だ」と言います。健全な境界線によって定義される成熟したふたつの人格が「ひとつ」となるところに、結婚の醍醐味があるのですね。だから、境界線とは夫婦を分けるものでなく、究極的に、夫婦をつなぐもの、というイメージです。

 昨日は訳者あとがきを書きました。その中で、「境界線の真髄は、他者との間に適切な距離を取る、というような、円滑な人間関係のノウハウにあるのではありません。神と他者との関係という文脈の中で、キリストが私たちに教えられたような生き方、愛し方を学び、それが人格の一部となっていくことにあります」と書きました。私たちが境界線について語るとき、学ぶとき、これを押さえておくことがとても重要だと思っています。距離をとることや、トラブルを回避して他者とうまくやっていくことが目的なのではなく… 共同体の中で他者と関係を持ちながら生きるよう造られている私たちが、キリストに倣ったやり方で愛し、生きるようになること、それが、健全な境界線を持つことのゴールだと思うのです。
 
 本書が用いられますことを、心から祈っています。行程の最後まで守られますように。

MEMO: 宣教は神のものである

 先日、「スペース作り」という記事で、霊的修練に関することを書いた。その中で、土台となる霊的修練の一つに「ミッション」が挙げられていて、私もあまりピンと来なかったのだけれど、かきごおり先生も、やはりこれがピンと来ないという旨のことをフェイスブックに書いておられた。「ミッション(使命・宣教)」と聞くと、どうしても「私」がやること、「私」の働き、「私」の使命、みたいなイメージで、それがどう神様に働いていただくためのスペース作りになるのか、今ひとつわかりにくかった。

 そうしたら、先ほど、クリストファー・ライトの「神の宣教」を読んでいたとき、2章で「宣教(ミッション)」の定義に言及されていて、そこにこうあった。
 

……この釈然としない考えは、私たちがほとんど無意識のうちに、宣教は第一義的には、基本的に私たちがすること、人間が担うべき教会的な使命である、と考えているところに起因するのであろう。この傾向は、私たちが宣教という言葉を、限定的にも一般的にも、伝道という言葉の同義ととして使う縮小主義的な習慣に陥っているときに、特に顕著である。……
 「聖書の宣教的土台」を適切に語るためには、私たちが持つ宣教のパラダイムを変革しなければならない。……
 ……宣教は私たちのものではない。宣教は神のものである。……宣教が教会のために作られたのではない。教会が宣教のため、神の宣教のために作られたのである。」(64.65ページ)

 ははぁ。ミッションとは、もともと神様のものだから、私たちがそこに参画させていただくことで神に出会い、だからこそ、それによって私たちの内で神様に働いていただくためのスペースを作ることになるのかな。なんとなく分かってきたような… ミッション(宣教・使命)とは、私たちのworks(働き、わざ)ではないのですね。

 それから、ちょっと別件なんだけど、これもメモ。同じく「神の宣教」から。

Our future is the future promised by God to Abraham, achieved by Jesus and to be enjoyed by the whole of redeemed humanity from every nation, tribe, people and language (Rev 7:9-10). Our lives also then are to be shaped by the gratitude that looks back to what God has promised and the mission that looks forward to what God will accomplish.
私たちの将来は、神がアブラハムに約束した将来であり、イエスがすべての国、種族、民族、言語に属する人(黙示録7:9−10)からなるすべてのあがなわれた人々のために完成してくださった将来である。私たちの将来は神が、約束してくださったことを振り返ってみることによる感謝と、これから神が成し遂げてくださることを仰ぎ見る宣教の使命によって形づくられるのである。(『神の宣教』59ページ)

神の宣教 第1巻~聖書の壮大な物語を読み解く~ (東京ミッション研究所選書シリーズ)

神の宣教 第1巻~聖書の壮大な物語を読み解く~ (東京ミッション研究所選書シリーズ)

スペース作り

 ヘンリ・ナウエンは、霊的修練とは神が私たちに働きかけることのできるスペースを作るための努力のことだと言った。修練の行為そのものが私たちを清めるとか、そういうことではなく、私たちのうちに「キリストが形造られる」(ガラテヤ4:19)よう、神様が働いてくださるためのスペースを作るために私たちの側で行うこと。私たちの心や思いは、放っておくとすぐに神以外のいろんなもの(思い煩いだったり、自己実現だったり、さまざまな耽溺だったり)で一杯になってしまい、神様に入ってきていただく余地がなくなってしまうから…

 うちの教会の霊的形成パスターは、そのための土台となる要素として、次の三つを挙げている。

  1. 休息:肉体を持つ存在として造られた私たちは、一日24時間のうちの約3分の1を睡眠にあててこそ、最もよく機能できるようにデザインされた。睡眠不足で疲れているときには、身体だけでなく、精神的にも感情的にも不安定になってしまうのは、誰でも経験済みだと思う。さらに、神様が私たちに安息日を守るよう言われたのは、身体や精神が必要とする休息をとるというだけでなく、私たちが被造世界全体における神様の支配と主権を認めるためでもあった。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)。一週間のうちの一日だけでなく、毎日の生活の中に、定期的な「やめよ」の時間、すなわち睡眠をとることは、実は、最も基本的な霊的修練の一つ。
  2. 御言葉と祈り:「あ、やっぱり聖書読まなきゃダメ? 祈らなきゃダメ?」という声も聞こえてきそうだけれど… いえ、これらをしないと「ダメ」ということではなくて。この夏、エミを連れてうちの教会の霊的形成の入門(?)クラスのようなものに行ってきた。帰り道、「どうだった?」と聞くと、エミは、「う〜ん、すでに知ってることもたくさんあったけど… 要するに、私はもっと聖書を読んで祈らなくちゃダメなんだな。(I JUST HAVE TO read the Bible and pray more)」と答えた。I JUST HAVE TOと言ってしまうと、どうしても律法主義的、形式主義的に聞こえてしまうが、では「いや、別に読まなくていいのよ、祈らなくてもいいのよ」ということなのか、と言えば、それも違う。ある意味で、エミが言ったことは正しかった。確かに、もっと聖書を読んで祈る必要があり、それがなくては霊的形成は始まらない。しかし、「義務」としてではないのだ。読まなかったら神様が怒って私たちを罰するとか、何か悪いことが起こるとか、そういうことではない。そうではなくて、これは「いのち」の維持の問題。身体を維持するためには食事を摂らなくてはならない(HAVE TO eat)ように、主にあるいのちの維持のためには、私たちにはみことばと祈りが不可欠ということ。御言葉に親しむことによって、神様が私たちに語っておられる神のストーリーを知ること、そして祈りによって、神様と会話すること。一年間で聖書66巻を通読しなくてもいい。一日一章でもいいし、しばらく聖書を読まない日が続いたら、それでもうアウト、というものでもない。でも、「私たちのうちにキリストが形造られる」ために、神様に働いていただきたいなら、やはり御言葉と祈りは不可欠。
  3. ミッション(使命・宣教):最近、英語圏のクリスチャンの間では、「ミッショナル(missional)・宣教的」という言葉が大流行している感がある。でもこれは一過性の流行ではなくて、注目されるべくしてされているのだと思う。(参照:『神の宣教』クリストファー・ライト著)そもそも、神様が私たちのうちにキリストを形造ろうとされるのは、神の国の働きに私たちを招くため。私たちの内側でなされる神様の働きが、神の国の働きという形で外に流れ出るのでなければ、霊的いのちの動脈が詰まってしまうと、うちの霊的形成パスターは言う。以前、「霊的形成とは、他者のためにキリストに似た者に変えられていくプロセスである」というマルホーランドの定義をご紹介したことがあるが、この『他者のために』というアウトレットが、私たちの霊的形成には組み込まれているのだ。また、ミッションとは、単なる「働き」「手のわざ」ではなく、そのただ中に主がおられる場でもある。私たちが主に出会うのは、祭壇の前だけでない。貧しい人、しいたげられている人、捕われている人、失われている人たちのために私たちが御国の働きを行うとき、私たちはそこで主ご自身に出会う。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)。

 「休息」や「御言葉と祈り」はわかるのだけれど、私としては、「ミッション」が霊的修練の一つとして掲げられているのが興味深いと思った。ここに、一つのパターン、リズムが見えてくる。働いて、休んで。吸って、はいて。伸びて、縮んで。満ちて、引いて。退いて、出ていって。これは、私たちのうちに脈打つ、キリストのいのちの鼓動なのかもしれない。(うちの霊的形成パスターは、これを「ジーザス・リズム」と呼ぶ。)働きっぱなし、伸びっぱなし、はきっぱなし、出ていきっぱなしでは、力尽き、燃え尽きてしまう。休むだけ、退くだけでは私たちの存在意義がわからなくなる。この両方がバランスよく、リズミカルに生活の中で繰り返されるとき、主は私たちをキリストに似たものに形造るために自由に働くことができ、それが外側にも自然に現されていくのかな。

みんの帰省

 すっかり書き忘れていたけれど、先週の木曜日から、秋休みでみんが帰省している。大学が始まって2ヶ月弱、最初のうちはよかったものの、途中で風邪を引いて体調を崩してしまい、そこから気持ちも弱くなってしまったのかホームシック。しばらくうにゃうにゃしながらも、何とか中間試験を終え、帰ってきた。シカゴに戻ってきた直後は、「シカゴの空気だ〜!ここはやっぱり私が属す街!」とか言って、連日友達に会ったり高校へ行って先生たちと会ったりしていたが、今朝になって、「やっぱりNYが恋しくなってきた、そろそろ大学に戻ってもいい」と言いおった!
 NYにいる間は気づかなかった自分の変化に、こちらに戻ってきてからいろいろ気づいたそうだ。そして、6日間、なつかしい友人たちとの時間を満喫した今、またNYに戻って、そこで新しい友人たちと暮らし、勉強することが、とても楽しみだと言う。
 人間って、自分が持っているもの、与えられているものの価値は、そこからいったん離れてみないと、なかなかわからないものなのかもしれない。NYに行ったときは、家庭や高校時代の友達のありがたみを実感し、こちらに戻ってきてみると、新しい環境で学ぶ機会が与えられていることがいかに幸いか、身にしみた様子。それを実感しただけでも、秋休みに帰省してよかったね。これから始まる一学期の後半は、もっと一生懸命がんばる!と張り切っている。

 大学へは、明日の早朝戻る。朝6時5分のフライトなので、遅くとも4時半には家を出ないといけない。普段ならこういうときは、ぼぼるパパが送り届けてくれるのだけれど、今週はパパはコロラドに出張中で留守なので、私が行く。

 感謝祭の休みには、エミと一緒にニューヨークで過ごすらしい。
 エミのほうは、今年はキッチン付きのアパートスタイルの寮に住んでいて、かなり自炊しているそうだ。家にいるときは全然覚えなかった料理だけど、自炊を始めたらあっという間にかなりできるようになったよ!と嬉しそうに教えてくれた。感謝祭には揚げ出し豆腐を作ると言っているが…(なぜ? ターキーは?)

Bar Mitzvah

 土曜日に、友人の息子さんのBar Mitzvahに行ってきた。Bar Mitzvah(バルミツバー)とは、ユダヤ教の成人式のようなもので、男の子が13歳になったときにコミュニティーをあげて祝うもの。(女の子の式はBat Mitzvahバトミツバーと言う。)バルミツバーを迎える男の子は、ヘブル語でトーラー(旧約聖書モーセ五書)とハフトーラー(預言書)の一部を朗読する。この日のために、ヘブル語の先生からかなり特訓を受けるらしい。

 今回バルミツバーを迎えた子の両親は、私の大学院時代の友達。二人とも、プリンストンの心理学科で私の先輩だった。お父さんのボアズは、私のオフィスメイトで、彼とは2年間机を並べた。お母さんのリンダは別の研究室だった。ボアズはエルサレム出身のイスラエル人。二人とも、現在シカゴ大学の教授をしている。ボアズは大学時代は全然宗教的ではなく、豚肉でも何でも食べていたと思うんだけど、結婚して子供ができて、やはりユダヤ教の伝統の中で子育てしたいと思ったらしい。子供たちは、シカゴ大学の近くのユダヤ教の学校に行っている。

 シナゴーグも大学のそばだった。礼拝は3時間にもわたるもので、びっくり。しかも、礼拝の約3分の2くらいは、ひたすらトーラーとハフトーラからの朗読。入り口では聖書と祈祷書がわたされ、頭につける丸い帽子も貸してくれる。カンターと呼ばれるいわばワーシップリーダーが、美しい声で、独特の節回しで歌うように聖書を読み、祈る。ところどころ会衆も参加する。(会衆が参加する部分は英語)それが延々と続く。賛美はいくつかユダヤ教の賛美歌もあったようだが、大半は詩篇そのままだったと思う。
 途中で、壇上の奥に設置されている巨大な仏壇のような場所の扉がひらかれ(ark,つまり「神の箱」と呼んでいたような…)、中から大きな巻物を取り出す(長さ80センチくらい?)。カンターと数人の人が巻物をかつぎ、会衆のまわりとぐるりとまわる。人々は手を伸ばして巻物に触れていたりした。そしてまた壇上に戻ると、今度は会衆から数人が二人づつ壇上に上がり、巻物を広げて、ヘブル語で朗読する。指揮棒のようなものを持ち、それでなぞるようにしながら読んでいた。そして、礼拝の中盤くらいにきて、ついにバルミツバーの男の子が出てきて、彼もヘブル語で朗読する。無事朗読が終わったら、会衆がその子に向かってキャンディーを投げていた。すると、会衆の中から子供たちがわらわらと壇上に出てきて、キャンディーを拾っていた。(笑)厳粛なのだけれど、とてもアットホームな感じ。
 朗読の次は、短いスピーチもしていた。ユダヤ教社会でこれからは大人と見なされるということで、その心構えに関するスピーチだった。13歳であれだけ話せるのは立派だと思った。 そのあと、ラビが出てきて、短いお話。そして、祈祷書を使って、イスラエルのため、アメリカのため、世界平和のためなど、みなで祈った。とても感動的だった。
 何がいちばん印象的だったかと言えば、先にも書いたように、厳粛なのだけれど、会衆全体が一つの家族というか、信仰共同体であるのがとてもよくわかったこと。こういう環境で子育てできたら、確かに親は心強いだろうなと思った。人数は、大人から子供まで、100人弱くらいだったろうか。今回はバトミツバーだったので、私たちのように招待されて来た人たちも少なからずいただろうから、普段は50人くらいなのかもしれない。カンターは女性だったし、朗読者の中にも女性がいたので、完全に昔ながらのやり方というわけではないのだろうけれど、それでも御言葉をとても大切にしているのがよく伝わってきた。イエス様の時代も、こうして会堂でトーラーやハフトーラー(イザヤ書とか)を朗読したのだろうな…

 礼拝のあとは、バトミツバーを祝っての会食。私はユダヤ教徒ではないけれど、それでも受け入れられているのを感じて、とても居心地がよかった。3年後くらいには、いちばん下の息子さんのバトミツバーなので、それに参列させていただくのが今から楽しみなくらいだ。


 これは私とボアズ。客観的に見ると、彼もすっかり頭が薄くなって、おじさんに見えるかもしれないけれど、私の目には20年前のボアズと同じ。ボアズとおしゃべりしているとき、私が、「あなたの最近の論文読んだよ」と、論文の話しをし始めたら、隣でぼぼるパパが受けまくっていた… 

 彼の長男は大学2年生だそうで、4人で「時間が経つのは何て早いんだ!」と語り合った。
 私とぼぼるパパは日本から、彼はイスラエルからアメリカに来て、20数年前に知り合って、こうして細くても長く、交流が続いていること、嬉しいなと思った一日でした。

(式の最中の写真も取りたかったのだけれど、礼拝中の写真撮影は禁止だったので撮れなかった。)

MEMO:From the Shepherd’s Nook (EHP)

 ユージーン・ピーターソンの、The Contemplative Pastor: Returning to the Art of Spiritual Directionという本について書かれたブログ記事をメモ。時間のあるときにゆっくり読みたい。

The Contemplative Pastor: Returning to the Art of Spiritual Direction

The Contemplative Pastor: Returning to the Art of Spiritual Direction

MEMO: Toward the Other

 ブライアン・マクラレンのビデオ。

 それに対する神学者ピート・エンズのコメント。

 いろいろ思うところがあるのだけれど、未消化のまま書きたくないので、とりあえずメモのみ。

ホーム日記ミルトスの木かげで(最新)