ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

意志の力か感情か

 昨日のBlessed Be Your Nameの記事に関して、賛美は意志の力でするのか、感情によるのか、ということに関するコメントをいただきました。ありがとうございます! これについては実は私も普段からいろいろ思うところがあるので、ちょこっと書いてみます。

 結論から言うと、私は両方だと思っています。人間には感情的な部分もあれば、知性的、理性的な部分もありますよね。聖書も「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛せよ」と言っているように、神様は私たちがその全てを総動員させて神を愛し、賛美し、礼拝することを求めておられると思うのです。

 感情は状況に左右されたり、時とともにうつろい易いので、特に信仰においては敬遠されがちのようですが、内側から湧き上がる感情をもって主を愛し礼拝することを恐れたり、何か安っぽいものであるかのように思わなくてもいいのではないでしょうか。感情=その時の気分、というわけではなく、私たちの内なる方の霊に共鳴して湧き上がって来る感情というものがあるはずだと思うのです。気分にまかせて礼拝するというのは問題外でしょうが、大切なのは、私という人間の全存在ーー感情も知性も意志も含むwhole personーーが、内なる方の霊に従って礼拝することであり、それが「霊とまこと」によって礼拝するということなのかなと思います。

(蛇足ですが、感情がうつろい易くあてにならないのと同じくらい、実は私たちの「意志の力」もまた弱くあてにならないものです。このあたりのことは、今翻訳中の『12 "Christian" Beliefs That Can Drive You Crazy(仮題:クリスチャンをおかしくする12の「霊的」思い込み)』の中にもたっぷり出てくるので、どうぞお楽しみに。)

 以下は、五年前に「はちこの日記」をリバイバル新聞に連載していた頃に同じテーマでもう少し詳しく書いたものです。長いですが、結構私がこだわっている事なので(笑)、そのまま再掲しますね。(もっとも、五年前の文章なので、今ならもう少し違った書き方をするかなという部分もありますが。)お時間のある時にでもご覧ください。

               ***
「燃え続けて」

先月、私の教会を訪れた宣教師の先生が、こんなことをおっしゃっていた。

「宣教は、教会のプログラムではなく教会のパッションです。宣教は、the multitude (大勢)に届こうとするものではなく、the individuals (個々の人々)に届こうとするものなのです。まさに聖書が『That None Perish (ひとりとして滅びることのないように )』と言っているように。」

「一人として滅びることのないように」、これは確かに神様御自身のパッションであり、私たちの罪の身代わりとなって、十字架の上で血を流して死んで下さったイエス様のパッションではないか。

パッション(情熱)・・・ この言葉には燃え盛る感情の渦のようなものを感じさせる。よく、信仰は感情の問題ではない、というようなことを聞く。確かに感情「だけ」の問題ではないだろうが、感情抜きの信仰というのも、私には考えにくい。同様に、愛は感情ではなく意志である、ともよく言われる。これもまた、意志だけで感情の伴わない愛というのは、私にはあまりピンとこない。

聖書を読んでいると、神様ご自身がいかに情熱に満ちた感情的なお方であるかがわかると思う。「万軍の主の熱心(Zeal)がこれをなす」という表現は旧約聖書中繰り返し出てくるし、神様がイスラエルの民を愛し、追い求めておられる様は、まさに情熱的としか言いようがない。さらに「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛せよ」というくどいまでの戒めは、信仰を持って神様に従うことが感情抜きでは済まされないことを示唆しているだろう。ジョナサン・エドワーズも「宗教感情論 (Religious Affections)」という著書のなかで、「真のキリスト教信仰は、その大部分が感情に存する」と論じている。

信仰にしても、愛(結婚)にしても、その始まりは往々にして強い感情を伴う。ただ、人間の感情は時とともにうつろい易いので、感情だけに自分の信仰や結婚のコミットメントの基盤を置くならそれは長続きしないだろう、という危惧が多くの人のなかにあるのだと思う。しかし、本当に大切なのは、最初に燃え上がった感情を意志の力にすり替え、感情を置き忘れてくることではなく、むしろそれをいつまでも燃やし続けていくことではないだろうか。エドワーズも言っていたが、人間とは、愛や恐れ、希望や願望や憎しみといった感情に影響されない限り非常に不活発な存在であり、そのような感情こそ、人間の諸活動の原動力となっているのだ。神様が人間をそのような者として造られたのだ。そのためだろうか、ペテロは自分の使命は人々の心を再び「奮い立たせる」ことであると言っているし(第2ペテロ1:13、3:1)、パウロもその書簡の読者に向かって「霊に燃え」よ、「再び燃え立たせ」よ、と力強く勧めている(ローマ12:11、第2テモテ1:6)。

実際、イエス様の十字架を通して現わされた愛と恵みの広さ深さを知れば知るほど、私たちの信仰はますます感情的にも燃え上がり奮い立たされないだろうか? このような感情は、私たちが日々御言葉と祈りを通して、また日曜日ごとの礼拝を通して、神様と親しい交わりを持ち続けている限り、そう簡単に時とともに薄れていくようなものではないはずだと思う。成熟した安定した関係とは、必ずしも感情による盛り上がりのない、淡々としたものである必要はないのだ。

そういえば、先週私の家で聖研がもたれたのだが、最初に到着したご夫婦を居間に通して、私はキッチンでちょっと用事を済ませてから居間へ顔を出したら、そこではそのご夫婦が抱き合ってキスをしていたのでびっくりしてしまった。20代の新婚さんというならともかく、奥さんは40代後半、御主人は50代半ばで、数年前に結婚25周年を迎えた二人なのだ。いやはや、大変結構ですなぁ。やっぱり、いつまでも感情の伴った愛を夫婦の間でも保ち続けたいものだと思ってしまった。そしてもちろん、私のイエス様への愛も。

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