ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

リアルであるということ

先日、JCFNの主事であり、友人でもある下部祐子姉のウェブ日記に次のようにあるのを見つけた。内容が、私がここ最近ずっと思わされていたことと関連しているので、本人の許可を得て全文掲載させていただきます。

昨日は、サドルバック教会のCelebrate Recoveryというのに行って来ました。
この教会に行くようになってから、かれこれ、半年以上になろうとしているのですが、なんか、このCRには、今までサドルバックで会った人たちとはぜんぜん違う、「なまの人たち」っていうか、「リアルな人たち」がいました。

Sexual Addictionのある人、ご主人がAngerManagementができない人、借金を抱えて苦しんでいる人、自分が、共依存でコントロールできない人、、、。

みんなの顔は、いわゆる一般的な「クリスチャンの笑顔」の仮面は取れていて、神様に「助けてほしい。」と真に願って、勇気を振り絞って、ここに来ました、っていうそういう顔をしていました。

証の中で、何人かが言っていたのは、「教会に行って、自分の問題をどうしたらいいのか色々な人たちに聞いてみたんだけど、みんなの答えは、『聖書を読みなさい。』と『祈りなさい』だった。やってるよ、そんなこと、と思って腹が立った。もちろん、聖書を読んでお祈りしても、結局一週間ぐらいしか続かなかった。。」

Jesusには答えがあるはずなのに、教会には答えがない、そう思ってがっかりしている中で、このCRに出会った、と言っていました。だからみんなもあきらめないでね、って。

CRも、聖書とコミュニティをBaseにしているプログラムだから、教会なんだと思う。でも、教会が、そのやり方を知っていることは、本当に大切なこと。Passionだけじゃない、根性だけじゃない、Skillが必要で、そのSkillすらもちゃんと聖書は教えてるってこと、もう一度考えさせられました。

(ルカ10:27)

この日記を読んで強く思わされたことが二つあった。まず第一に、「リアル」であるということ。つまり、正直であること、ありのままの自分、ナマの自分であること、仮面を外していること、自分の中にあるものが良いものであれ、悪いものであれ、それをそのまま認め、神と他者の前に差し出せること。奇しくもつい先日、シアトルのKazukoさんも、「主の目に正しいこととは、”ありのままであること、リアルであることだ”」と書いておられた(8/4の日記)。ダビデも、主は心のうちの真実を喜ばれると言っている(詩篇51:6)。
なぜリアルであることがそんなに大切なのか。それは、それによって心の隅々まで主の光に照らされることができるから。癒しにせよ、回復にせよ、成長にせよ、主の御業はいつも光の中で行なわれる。そして、裏表のない、統合された品性が私たちの内に形作られていく。
でも、リアルであるとは、実は言葉で言うほど簡単じゃない。自分の弱みや葛藤、ましてや悪癖や罪を他者の前に認めるのは勇気がいる。それをするためには、キリストが十字架の御業によって成し遂げ,保証してくださった、ローマ8:1のような安全な環境が必要だ。「罪に定められることがない」環境、弱さを包む「恵み」と、その弱い部分を力づけ解放を与えてくれる「真理」がある安全な環境。そして、キリストの身体は、本来そのような安全な環境を互いに提供するために召されている。それなのに、祐子姉の日記にもあるように、人はしばしば、教会の中でこそ仮面をつけてしまいがちだ。プライドや、拒絶されるのでは、批判されるのでは、という恐れもあるだろう。実際、残念なことだけれど、教会の中で傷つく人は少なくない。
先日の日曜日の礼拝メッセージでも語られたように、交わりにおいて「Undignified」であるということ… かっこ悪くても、みっともなくても、リアルであれること。『スモールグループから始めよう!』を翻訳して以来、私自身、そういう交わりを渇望している。また、そういう交わりを他者との間に持てる存在でありたいと、切に願わされている。

祐子姉の日記を読んで思わされたことはもう一つあるのだけど、長くなってしまうので今日はここまでにしよう。

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