ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

 進化論対ID

最新号のタイム誌に進化論対インテリジェント・デザイン(ID) についての特集が組まれていた。ああ、またかいなという感じだが、やっぱり何か言っといたほうがいいのかな、と思って。

高校の理科教育における進化論の扱いをめぐる議論はアメリカでは歴史が長く、1925年くらいにまでさかのぼる。詳細は面倒なので省くが、基本的にはキリスト教系保守派が生命の起源と歴史についての進化論の記述に異を唱えて、司法・行政の判断に訴えるという構図である。

この路線での最近の動きは、IDを進化論と並べて生物学の教程で教えるべきだ、というもの。IDが創造科学など従来の反進化論勢力の主張と違うのは、進化論を批判するものの、聖書など特定の宗教とのあからさまな結びつきを排している点である。基本的にIDの主張は「高等生物のつくりはきわめて複雑であり、自然淘汰や突然変異などだけで説明することは不可能である。背後にそれをデザインした知能の存在を仮定したほうがはるかに説得力がある」というもので、その知能が聖書の神であるとは言っていない。こうすることで、教える側が公立校の教室に特定の宗教を持ち込むことを禁じる政教分離政策に抵触しないようにしている。また、進化論を教えるなとも言わない。

IDを理科教程に持ち込むことに対する私自身の立場ははっきりしていて、「反対」である。その理由は、他の多くの反対派の人たちも言っているように、IDが科学だとは思わないからだ。ここで注意してほしいのは「IDは科学ではない」と言っている点で、「IDは科学として質が低い」と言っているのでも、IDを推奨する人たちの世界観を否定するわけでもないことである。むしろ、「万物の背後にはそれをデザインした知能の存在がある」というのは、「知能」を「神」と置き換えればきわめて聖書的な世界観で、私のキリスト教信仰によく合致する。

しかし、これはあくまでも「世界観」であって、サイエンスではない。科学はその本質において世界観そのものを教える学問ではない。(その材料を与えることはあっても。)残念なことに進化論は無神論的、物質主義的世界観と結びつけられやすいが、私の同僚のマクロ進化論の講義やその道の専門家のセミナーを聞いてみればわかるとおり、その90パーセントは試料やモデルから仮説を検証するという、サイエンスのルールにのっとった地道な作業についてであり、話し手の世界観が反映されていると感じることはめったにない。

普段からよく言っているように、サイエンスはその手法を重んじ、形而上学的なものは守備範囲外とする。サイエンスの不完全な現状を見かねて創造的知能という(検証不可能な)形而上の存在に訴えることは、科学者たちにルール無視と取られてもしかたあるまい。これはサイエンスのintegrityにかかわる問題であると同時に、理科教育の現場に不必要な混乱と騒音をもたらすことになる。キリスト教界がそこを考慮せずゴリ押しするようなことをすれば、逆にキリスト教のintegrityを疑われかねないので、注意すべき点だと思う。

この議論はむしろ「社会学」「哲学」「科学史」などの教科で世界観同士の比較として取り扱われるべきで、生物学はそのフォーラムとしては不適切であると考える。
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(はちこより追記)以下は、自然科学と聖書の解釈の関わりについて、ぼぼるパパが彼なりに考えていることをちょっとまとめた文章です。(数年前に当時書いていた研究日誌に掲載したもの。)ご参考までにリンクします。

追記:

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