ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

昨日のこと

 昨日は、友人にランチに誘われ、近くのパンケーキハウスに二人で行って来た。最初のうちはお互いの家庭のことや教会のことなどを話していたのだけれど、そのうち彼女は自分の過去について話し出した。
 14歳の頃、親友の父親で、同じ教会の役員をしていた男性に性的暴行を受けたこと。親に言っても信じてもらえず、絶望の中、薬を大量に服用して自殺を図り、何日間か入院したこと。ここまでは、ランチに先立ちしばらく前に少しメールで話を聞いていたので、彼女がサラッと話し出したとき、私も驚く事なくうなずきながら聞いていた。すると彼女は、さらに話を進め、その男性にはその後もつきまとわれ、結婚した後でさえそうだったと言った。湾岸戦争でご主人が徴兵され、五ヶ月間留守になった時など、何度もその男性が家に押し掛けてきたそうだ。そして、「一度始めたことは最後まで終わらせよう」とか、「あの時のことを忘れたのかい」などとまるで脅しのようなことを言って彼女に迫ったのだそうだ。それを聞いた時は私もびっくりして、「なんてひどい! その事はご主人には話したの?」と聞いた。彼女はちょっと口ごもり、「うん、イラクから帰って来てからちょっと話した」と言った。そして、その後、ご主人の仕事の関係で別の州に引っ越して、そこでの教会生活は素晴らしく、いろんなことを取り扱い、整理することができて感謝だった、と彼女は手短かに話をまとめた。「そう、それなら良かった」と私も答え、そこで話は別の話題にうつった。
 でも、夜になってからこの会話を思い出し、もしかすると、彼女は他にもう少し言いたいこと、打ち明けたいことがあったのではなかろうか、という気がしてきた。私がせっかちに「ご主人に話したの?」などと聞いてしまったので、それが彼女が話そうとしていたことをせき止めてしまったのかもしれない。こういう言いにくい話をしている時は、相手のちょっとした反応によって、どこまで正直に心を開いて話せるか、変わってくるものだと思う。少しでも非難や批判、嫌悪や無関心などを相手のちょっとした反応の中に感じると、言おうと思っていたことも言えなくなることがある。もちろん私は少しの非難も批判も嫌悪も無関心も、持ったつもりはなかったけれど、彼女が何を話し出すのか予想がつかなかったため、受け入れ体制(?)が万全でなく、彼女の話の腰を折ったか、もっと深い部分を打ち明けにくくしてしまったのかもしれない。今更のように「しまった」と思った。彼女の過去についてあれこれ詮索する気は毛頭ないけれど、14歳での出来事だけでも十分傷になるだろうに、さらに後々つきまとわれただなんて、彼女の中にどれだけの影を落としたことだろう。彼女が赦しや受容、恵みや慰めや癒しなどを今なお必要としている領域があったとしても、まったく不思議はない。もしも彼女がその部分を神と神の家族に属する誰かの前に持って行きたいと願っているなら、私は喜んでその手伝いをしたいと思う。だからもし本当にそういう必要があるのなら、彼女が心を開いてもう一度話をしてくれますように、夕べは一人でそう祈った。

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