ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

自分を愛する

 先にも書いたように、CC06のテーマ聖句はマルコ12:29−31で、神との関係、自分との関係、他者との関係という、私たちにとって基本的な三つの関係をどう養い育てるかについて教えられた。その中でも、今日は大倉先生の2日目のメッセージ「自分を愛する」から、私の印象に残ったことを書き留めておく。あくまで私の印象に残ったことなので、先生のメッセージを正確に反映していないかもしれないけれど…

 「自分を愛する」とは、一歩間違えれば傲慢やプライド、自己中心を生む不健全な自己愛に陥ってしまう。しかし、私たちが神によって造られ、愛され、保たれ、神によって目的を持って生かされている存在であることを認識し、健全なセルフ・エスティーム(自分を尊ぶ心)を持つことは主の御心にかなったとても大切なこと。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という御言葉は、私たちが他者を愛するにあたって、まず自分を愛していることが前提であることを示唆している。ところが、自分を愛するとはごく自然で当たり前のようでありながら、主が私たちを愛し、受け入れ、尊んでくださっているように、自分自身を愛し、受け入れ、尊んでいる人はなかなかいないように見受けられる。なぜか。大倉先生はその理由の一つとして、ヤコブの生涯を例にとりながら、私たちと親との関係の歪みを挙げられた。

 ヤコブはイサクの息子で、彼には双子の兄エサウがいた。ヤコブとエサウが生まれる時、弟は兄のかかとをつかんで出てきたため、彼は「押しのける者・欺く者」を意味する「ヤコブ」と名付けられた。二人が成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、一方ヤコブは天幕に住む穏やかな人となった。ここで創世記25章28節を口語訳で見ると、こう書いてある。

 イサクは、しかの肉が好きだったのでエサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した。


 新改訳ではこうなっている。「イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。」この兄弟は、両親によって同じように愛されたのではなく、兄エサウは父イサクに偏愛され、弟ヤコブは母リベカに偏愛されていた。しかも、イサクがエサウを愛した理由は、彼が鹿の肉を好きだったという理由だった。つまり、エサウはイサクにとって、自分が好むことをしてくれる息子だったのだ。リベカがヤコブを愛したのは、ヤコブがイサクに愛されていないのを見て不憫に思ったからなのか、あるいは穏やかな彼の性格が彼女にとってことさら好ましかったからなのかはわからない。いずれにせよ、こうした親の偏愛が、二人の息子たちにどのような影響を与えたか、後の二人の関係のもつれからも想像に難くない。

 大倉先生は、この「しかの肉」は、現代の親子関係においても他のいろんなものに置き換えることができるだろうとおっしゃられた。「良い成績」「音楽」「スポーツ」と言った他者の目をひく才能、親が自分でかなえることのできなかった夢をかなえてくれそうな能力、クリスチャンホームの子供にふさわしい品行方正さ…

 子供は、親が好むものを敏感に察知し、親の愛を得たいがゆえに無意識のうちにその期待に応えようとする。しかし、子供には子供の個性があり、限界があり、いくら期待に添いたくてもできないこともある。そしていつしか子供は、親の期待に添えない自分は不完全であり、愛されるに値しない者であり、価値のない者だと心のどこかで思うようになり、自分で自分を受け入れられなくなってしまうかもしれない… あるいは、親自身の事情で親が子供に十分な愛情を示してあげられなかったときも、子供は自分は愛されるに値しないのだと思ってしまうかもしれない。またある子供は、頑張れば確かに親の期待(はっきり表現されたものであれ、子供が敏感に察知したものであれ)に添えることはできるけれど、それが自分が本当に進みたい方向ではない場合もあるだろう。親の愛を得たい、親を喜ばせたいという願いと、自分自身の人生を生きたいという願いの板挟みになって、自己を見失ってしまうこともあるかもしれない。自分の願う自分自身が誰なのかわからなくなった時、人は自分を愛し受容することができなくなるのではないだろうか。

 大倉先生は、自己受容の鍵は、親を赦し受け入れることだとおっしゃられた。親とて不完全な人間であるには違いない。親がいくら愛情を込めて愛しても、そこには親自身の自己中心や限界がある。私たちの親の愛は、歪んでいたかもしれない。偏っていたかもしれない。しかし、そのことで親を責めるのではなく、赦すこと。親を受け入れ、敬うこと。親を赦し、親の弱さ、不完全さを受け入れることが、自分自身の弱さや不完全さをも受け入れ、自分自身を赦すことにつながっていく。十戒の後半の戒めは人間関係に関わるものばかりだが、「あなたの父と母を敬え」がその一番最初に挙げられている。両親を敬うことは、私たちの祝福の基となる。また、創世記2章24節には、「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」とある。神さまは私たちを、いつまでも子供のままでいるのではなく、成人して親元を離れる存在として造られた。親子共にクリスチャンであるなら、親子の絆に変わりはなくとも、その関係は主にある兄弟姉妹、同労者としてのそれへと変えられていく。

 そしてその次の重要なステップは、「親替え」であると大倉先生は語られた。私たちはこれからは、父なる神の子として生きるのであると。

あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。 (マタイ23:9)

 イザヤ書43章4節「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」は有名な御言葉だが、これは神がヤコブに向かって語られた言葉だった。「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主がこう仰せられる。」(1節) 父イサクに愛されなかったということが、ヤコブにどんな痛みをもたらしていたか、私たちにはわからない。しかし、神御自身がヤコブの父となり、ヤコブを愛し、受け入れてくださった。天の父なる神が、彼を高価で尊い、あなたを愛している、とおっしゃってくださった。

 ヤコブは、この地上の父であるイサクからは「ヤコブ」すなわち「押しのける者・欺く者」という決して好ましくない名前をつけられた。しかし、天におられる永遠の父である神は、ヤコブに「イスラエル」という新しい名前を下さった。「イスラエル」とは「勝利者」を意味する。

 

神は彼に仰せられた。
「あなたの名はヤコブであるが、
 あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。
 あなたの名は、イスラエルでなければならない。」
それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。(創世記35:10)


 「それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。
 私たちが成長の過程の中でどのように歪んだ自己イメージを持つようになったとしても、神さまは私たちに新しいアイデンティティーを与えて下さるお方。神さまが私たちをご覧になっているその視線で、私たちも自分自身を見ることができるようにしてくださるお方。神が呼んでくださる名前で自分自身を呼ぶ、それこそ、神さまが私たちに求めておられる、健全な意味での「自分を愛する」ということなのだ…

 はぁ… もう、圧巻だった。私と私の親との関係、また、私と子供たちの関係、その両方について、いろいろ探られた。自分と親との関係が、100%非の打ち所のない理想的なものだったと言い切れる人は、なかなかいないと思う。もしこのメッセージが「自分を愛するためには親との関係をまっすぐにしよう」で終わっていたら、多くの責めと絶望感を覚えてかえって落ち込んだかもしれない。だけど、親は親として敬いつつも、私たちは成人したら親から独立して、今度はただ神さまを御父として生きていくのだというメッセージは、まさに福音だと思った。また、不健全な自己愛と、聖書が教える「自分を愛する」ということがどう違うのかについても教えられた気がする。前者は古い関係に縛られた状態で何とか自己をやり繰りしようともがいている姿、後者は新しい関係の中で主から与えられるものを受け取ること、と言えるかな。ちょっと抽象的だけど。

 さて、神との関係、自分との関係の回復が、どのように他者との関係に影響を与えるのか、大倉先生の3日めのメッセージはまた次回へのお楽しみ…(^^)

追記: あめんどうのクレオパさんが、「J・フーストン氏との対話」という記事を書かれています。その中で、自分の霊的生活の行き詰まりについてフーストン師に分かち合った時、「父親との関係」について指摘されたという話が出てきて、大変示唆深い記事なので、リンクさせていただきますね。

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