ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

隣人を愛する

 
 さて今日は、CC06での大倉先生の3日目のメッセージ、「隣人を愛する」の要約をご紹介します。今回もヤコブが登場します。
 
 双子の兄エサウを騙し、父イサクを騙し、兄の怒りを買ったために家にはいれなくなったヤコブは叔父ラバンのもとへ行った。そこでラバンと一悶着ありながらも、ヤコブはラケルとレアの二人の姉妹を妻にし、12人の子供たちを授けられ、ラバン以上の財産を築くまでに至った。その生活の最中、ヤコブは神に「先祖の国に帰りなさい」と言われた(創世記31:3)。しかし、彼には問題があった。それは、自分にとって一番近い存在、隣人であるはずの兄エサウとの関係がこじれたままであったということ。エサウのもとから逃れて20年が過ぎていたが、エサウは今でもヤコブを憎み、殺そうと思っているかもしれない。その兄がいる故郷に帰るとは、ヤコブにとって不安と恐れに満ちたものだったろう。その時のヤコブの心境は、創世記32章3−8節によく現われている。

 ヤコブはセイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使者を送った。 そして彼らに命じてこう言った。「あなたがたは私の主人エサウにこう伝えなさい。『あなたのしもべヤコブはこう申しました。私はラバンのもとに寄留し、今までとどまっていました。 私は牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでご主人にお知らせして、あなたのご好意を得ようと使いを送ったのです。』」 使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」 そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、 「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と言った。

 ヤコブは、兄がまだ自分のことを怒っているかどうかを知るために、使いを先に送って探りを入れた。その結果わかったのは、エサウは400人もの部下を従えて、こちらに向かっているということだった。エサウはどういう目的で400人を従えてこちらに向かっているのか… ヤコブの心は不安と恐れで一杯になった(32:11)。彼は家族や家畜を二組に分け、仮にエサウが襲って来たとしても半分は生き残れるようにと策を練った。そして怒っているかもしれないエサウの心を少しでもなだめようと、さまざまな贈り物を最初に送り、自分は一番後ろについた。一族の長にしては、随分と情けない話である。

 第一ヨハネ4:18には「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを取り除く」とあるが、ここでのヤコブは恐れに支配され、兄エサウに対する愛を持てずにいた。ここで大倉先生は言われた。隣人を愛するとは、相手がどうのこうのという問題ではなく、実は自分の心の問題であり、本気で隣人を愛そうとするとは、最終的には自分の「我」との戦いになるのです、と。

 兄の待つ故郷に帰るにあたって、贈り物の数々を先に送り、自分は一番最後についたヤコブは、その晩、ヤボクの渡しを渡った。この時、神の人が夜明けまで彼と格闘した。これは、神に反抗する戦いではなく、現代の私たちにとっては、神との直談判の祈りによる格闘と捉えることができる。自分の心にある兄への恐れ、愛の欠如から来る不信… この20年間、兄とのことで心の中で勝利を得ることができずにいた自分だったけれど、今日こそは何が何でも取り扱っていただこう、神によって解決していただこうという強い気持ち。

 ヤコブは、神の人との格闘のあと、その場所を「ペヌエル」と名付けた。ペヌエルとは、「私は顔と顔をあわせて神を見た」を意味する。

 大倉先生は言われた。顔と顔をあわせるまでに、神はヤコブの側に近づかれたのです、神御自身が、ヤコブの恐れに手を伸ばされたのです、と。24節に「ある人が夜明けまで彼と格闘した」とあるが、これは神によって始められた格闘だった。つまり、神が自らヤコブに近づかれ、彼の問題を解決しようとされたのである。なぜか。それは、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」という戒め以上に大切な戒めは、他にないからである(マルコ12:31)。 一人の人間が隣人を愛することができるようになるために、神自らがその人と格闘してくださった。

 この激しい格闘の結果、神はヤコブのもものつがいの筋肉を打たれた。ここは人間の身体の中で一番力のある部分で、ヤコブの強烈な自我を象徴していたと言えるだろう。ヤコブが自分では打ち砕くことのできなかった自我に、神が触れてくださり、それを弱さへと変えられた。そしてヤコブはついに神からの祝福を得た。そして神はこの時、ヤコブの名前をイスラエル(「神に勝たれる者」)へと変えた。大倉先生は言われた。「これはヤコブの十字架体験です。なぜなら、この場所のこの経験で、ヤコブは死に、イスラエルが生まれたからです。ヤコブの肉の人生はそこで終わったのです。」

 ここでの大倉先生の説明が素晴らしい。「これはヤコブが神と戦って、彼の自我が神に勝利したというような意味ではありません。むしろ、ヤコブが砕かれることによって神が勝利し、神が勝利したことによって、ヤコブが霊的な勝利を得たということです。彼はもはや自分に頼まず、神に頼むことによって真の解決を得たのです。」

 神によって自我を打ち砕かれ、新しい名前をいただいたヤコブは次にどうしただろうか。

さてヤコブは目をあげ、エサウが四百人を率いて来るのを見た。そこで彼は子供たちを分けてレアとラケルとふたりのつかえめとにわたし、つかえめとその子ども達を真っ先に置き、レアとその子供たちを次に置き、ラケルとヨセフを最後に置いて、みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた。するとエサウは走って来て迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた。(33章1−4節)


 状況を客観的に見るなら、何も変わったわけではなかったし、むしろエサウたちが目の前に近づいていて、一層危機的な状況に追い込まれたと言える。しかし、これまでのヤコブならいよいよ恐れたとしても不思議はないのに、以前は自分が一番最後についていたヤコブが、ここでは自ら先頭を進んでいる! そして数々の贈り物も、もはや兄の機嫌を取るためではなく、心からの敬意の現れとして兄に捧げようとしている。ヤコブはこう言った。「いいえ。もしお気に召したら、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を神の御顔を見るように見ています。…」(33:10)

 押しのける者、すなわち自分が一番と思っていたヤコブの、人間観が全く変わってしまったのがわかる。自分があれだけ恐れおののいていた兄の顔が神のように見えただなんて。決して媚を売ったのではなく、これは彼の本心だったに違いない。ピリピ2章3節には、「何事も党派心や虚栄からするのではなく、へりくだった心をもって互いに人を自分よりも優れた者としなさい」とある。大倉先生は言われた。「人を自分より優れた者としている人が人間関係をこじらせることはありません。人を自分より優れた者としている人が憎まれることはありません。そして、人を自分より優れた者としている人を回りの人が放っておくことはありません。神と人はその人を高く引き上げてくれるでしょう。それは聖書の御言葉が何度も約束しているとおりです!」

 なるほど、これはすごい。しかし、本当にそんな人間になることは可能なのか? 私たちは疑問に思うかもしれない。答えは、「もちろん可能です!」 なぜなら、自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ、これより大事な戒めは他にないと言われたのは、神御自身だから。そんなにも大切な戒めを私たちが守れるように、神が助けてくださらないはずがない。これを私たちが自分の肉の意志の力で成し遂げられないことは、誰よりも主御自身が御存知であり、ヤコブにイスラエルという新しい名前を与えてくださった天の御父は、私たちにも同じようにしてくださるお方なのである…

====
 いやー、このメッセージにも大いに語られました。神との関係、自分のとの関係の回復がもたらす祝福が、そこで留まるのでなく他者との関係の中にも流れ出していく様は本当に感謝だと思った。私の中でこれらのメッセージをゆっくり消化し、さらに必要なことを示していただき、具体的に取り扱っていただきたいと思う。

 大倉先生、本当にどうもありがとうございました!!

 -大倉先生のメッセージ「自分を愛する」の要約はこちら

ホーム日記ミルトスの木かげで(最新)