ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

キリストの平和

 昨日の子どもたちの面談は、どれもとても感謝だった。ま〜やの算数の先生との面談は、かつてないほど有意義で、私の心配やら懸念やらはかなり解決された。ま〜やの学校では去年から、シカゴ大学の数学教育プロジェクトだかなんだかいうチームが編纂したEveryday Mathematics という教科書を使っている。これが私たちが子どもの頃に日本で習ったやり方とはまったく違う概念の上に成り立っていて、これで本当に大丈夫なのかと疑ってしまうのだけれど、先生の説明を聞いて一応納得。今のま〜やが本当に一学年上の算数の授業についていけるのか不安だったけれど、先生が「大丈夫です。4年生のクラスに戻したりしたら、かえって害になります」と太鼓判を押してくださったので、先生を信頼し、このまま学校との協力体制を保ちつつ、頑張ってみようと思う。

 みんの学校では、クラスルーム制ではなくチーム制というシステムを採用していて、学年が四つのチ−ムに分かれ、それぞれのチームを3〜4人ずつの先生方が指導している。先生たちが互いにアカウンタビリティーを負い合いながらチームで子どもたちを指導する姿は、それ自体が生徒への良いロールモデルになっているような気がして、私はこのシステムが気に入っている。面談では、各科目のみんの成績(すべての宿題、テスト、レポートなどの提出状況から点数まで、全部一覧になった非常に緻密で明解なものを見せてもらった)や普段の素行、友人関係などについて先生から話を聞いたり、こちらからもシェアしたり。先生方(女性二人、男性一人)は、みんは成績が良いのもさることながら、人格が素晴らしいと大いに誉めてくださった。あんまり誉めてくださるので、私は感激して、目がうるんでしまった。そしたら、涙って伝染するんですね、一緒にいたみんも恥ずかしそうに目を赤らめ、先生たちまでウルウル。親、子、先生ともに涙しながらの前代未聞(?)の面談になった。(笑)学業の指導も大切だけど、こうして人格的な部分にも気を配って、生徒の長所を見付け、それを誉め、励ましてくれる素晴らしい先生方に恵まれて、みんも私も幸せだなぁと思った。

 昨日はまた、公園で私が以前行っていた教会の元牧師夫妻にばったり遇い、20分くらいだけれど、心の通ったとてもよい交わりを持つことができた。彼とは実は半年くらい前にも公園でばったり遇って、当時私の心にあった問題やら痛みやらを、立ち話なのにいきなり分かち合ったりしたことがあった。彼はその時以来、ずっと私を祈りに覚えていてくれたそうで、昨日もすぐにその話の続きになった。アメリカ人の会話にありがちな「Hello, how are you?」「Fine, thank you, and you?」を卒業して、もっと深い次元での分かち合いができるようになると、主にある関係の麗しさが際立つ。
 この牧師夫妻は、過去3年半の間に多くの試練を通られた。教会の信任投票で過半数を割り、追われるようにして辞任。しかし年老いた両親の世話をするためにこの地区に家を購入したばかりだったので引っ越してよそに行くわけにもいかず、そのままこの町に残って小さな集会を始めた。(彼らが購入した家というのが、私の家のすぐそばで、徒歩一分くらい。)長女の結婚が暗礁に乗り上げ、娘婿が珍しい種類の脳腫瘍になり、一命は取り留めたものの聴覚を完全に失った。そうこうしているうちに奥さんが乳癌で手術、そして化学療法を受ける日々。次から次へと試練に見舞われたが、彼らの信仰は揺らぐことはなく、むしろへりくだりと恵みに満ちて、人格的にも以前よりもキリストに近づいたような感じ。私が言うのも生意気なんだけど… 私が立ち話でいきなり深い話を分かち合えたのも、彼の中の恵みが見えたので、それで分かち合いたくなったのかな…
 試練は人を二分するものなのかもしれない。ある人たちは、試練の中でへりくだって主の恵みを体験し、喜びと感謝に満たされていく。ある人たちは、試練の中で主に恨みや疑いを抱くようになり、苦味に満たされていく。この牧師夫妻は明らかに前者だった。

 さて昨日は、出たり入ったりの合間に、久しぶりにアン・モロウ・リンドバーグの『海からの贈りもの』を取り出して読んでいた。この本は、5年くらい前に友人のshinoちゃんがプレゼントしてくれたもので、以来、私の愛読書。家事や育児で疲れてくると、これを読みたくなる。著者は、女性とは家事、育児、仕事、ボランティア活動、様々な人間関係の大事や雑事にもまれる毎日で、まるでサーカスのように、日々暮らしの曲芸を演じているという。日常生活という名の綱渡りをしていると言う。

 「あれもこれもと、分断される日々。あちこちへの気配り。これらは女の生活と一体化してしまっている。
 女であるということは、車輪の軸から広がるスポークのように、中心から四方八方に向かう義務と関心を持つことであるからだ。したがって女の生活は、必然的に円形をなしている。…
 わたしたちは、相反するものを抱えている。わたしたち自身をさまざまな方向に分散させながら、同時に、自分という平衡を保つのは、とても困難なことだ。が、わたしたちは実際、そうしなければならない。そしてそれは大事なことだ。…
 そうして、この目的…、人間関係、さまざまな責任、人間活動の回転している中心になること、つまり『不動の軸』になることに向かって、わたしたちは努力したい。…」 

 そして彼女は、この「不動の軸」を自分の中に育てていくためには、いかにして魂を静かにできるかが問題だと言う。
 昨日コロサイ書を読んでいたら、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」(3:15)が心に留まった。忙しい活動の中で魂を静かに保つことと、キリストの平和に自らの心を支配させるということが、私の中で一つにつながった。リンドバーグは、こうも言っている。「与えるのが女の役割であるというのなら、その泉が涸れてしまわないよう、女もまた満たされなければならない。」私たちがキリストといういのちの泉につながっているなら、私たちの杯はいつも溢れ、涸れることなく満たされているだろう。そんなイメージも湧いた。こんなことをいろいろ思わされ、昨日は普段以上に慌ただしい一日になるはずだったのに、思いがけず主の御臨在の濃い、豊かな一日となった。(忙しいとぼやいていた私のために祈ってくださった方たち、どうもありがとう…)

 今日は、ケンの部屋の片づけついでに、ベッドの向きを変えてみた。ベッドの向きを変えてみたら、今まで気にならなかった本棚の板の角が、とがっていて危険なことに気が付いた。それでいろいろ考えた末、見栄えは悪いけれどガムテープでそこにコットンを貼付けることにした。「霊的活動」とはほど遠いような、そんな日常的な「母親」としての活動をしながら、そこに主の甘い御臨在を感じた。心の中に平安があって、感謝が溢れた。
 これをアップロードしたら、夕飯の支度をして(時間があまりないから、簡単に親子丼か何かにしよう)、今夜は7時半からエミの演劇部の舞台を観に行く。『タイタニック』のミュージカル版で、エミはオーディションに落ちたためキャストにはついていないけれど、ピットオーケストラでヴァイオリンを弾く。エミ曰く、「ものすごく感動的な場面があって、ママは泣き虫だから絶対泣くよ。ティシュを忘れずに持って来た方がいいよ。」はいはい、そうしましょうね。(笑)

 あ、ケンスケが「お腹すいたー」と叫んでいる。夕食の支度をしなくては。

 主よ、キリストの平和が、いつも私の心を支配しますように。

ホーム日記ミルトスの木かげで(最新)