ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

「イデオロギーと信仰」

 今朝配信されてきた、上沼昌雄先生の神学モノローグです。(下線ははちこによります。)

「イデオロギーと信仰」2007年8月27日(月)

 ジョン・バニエのヨハネ福音書講解・瞑想書を妻と読んでいる。9章の「生まれつきの盲人」を癒す出来事で、ジョン・バニエが盲人の心に寄り添っている記述に引き込まれる。障害者と共に歩んでいるジョン・バニエが、盲人の目線に立って観ている。その記述に吸い込まれる。そしてその目線はそのままイエスの目線でもあることが分かる。すなわち、イエスの心を心としてジョン・バニエはヨハネ福音書9章の出来事に入っている。

 近所の人たちはこの人をパリサイ人のところに連れてきた。イエスが泥を塗ってこの人の目を開けたのは、安息日であった。大変なことであった。いやしの奇跡と安息日の厳守の間でパリサイ人たちも揺れる。あるパリサイ人は奇跡に対して目を閉ざして、盲目であった。そして「私たちもイデオロギーによって盲目になりうる。(We too can be blinded by an ideology)」と、ジョン・バニエは言う。

 前回の「目覚めていること」の記事に関して、いくつかの興味深いレスポンスをいただいた。心のどこかで気づいていたことを後押しすることになったのかも知れない。そしてどうしても「目覚めていること」と「盲目であること」との対比が浮かんでくる。目は開いていても盲目のままである。モーセの弟子であり、安息日を厳守することに閉じこめられている。私たちも同じようなイデオロギーに閉じこめられている。

 路上生活者のための奉仕をしている方が「目覚めていること」の記事にコメントをくれた。それでさらにジョン・バニエの言っていることを伝えた。また返事をくれた。「私たちは皆、どうにもならないほどイデオロギーで盲目にされている。(We are all desperately blinded by ideology!)」そして「人生と社会の痛ましい現実に立ち向かっていく勇気とリアリズム」を持つキリスト者に変えられていきたいと言う。

 レヴィナスがいう「同」は、同心円のなかの閉鎖的な考え、仲間、グループ、共同体、社会、国家を意味している。その同心円のなかで自己増殖していく「イデオロギー」について当然論文で取り扱っている。ナチスというイデオロギーである。そのなかで同じように考え、行動しない人を人とも思わないイデオロギーである。同じことをジョン・バニエが取り上げているので驚く。しかし、結構身近に感じるものである。

 先週の金曜日に89歳の方の葬儀があった。18年前に移り住んだフォレストヒルの教会で知り合ったジェントルマンであった。この小さな教会がこの数年2.3重に分裂した。この方ご夫妻もこの2年ほど前に近くの教会に移った。その教会で葬儀が行われた。この方の人柄を何人かの人が証のように語られた。温かい人柄がそのまま伝わってきた。ただ説教で復活のからだについて、説教者と同じ解釈をしなければこの方と天国で会えないとも言わんばかりのものであった。驚いた。責められている感じであった。妻も驚いていた。

 聖書信仰、福音主義のなかで自分も同じような姿勢を取っていたことを知る。そうすることが信仰であるかのように思ってしまう。ある聖書の理解が絶対のように思って、そのように理解しない人を排除してしまう。イデオロギーである。聖書解釈を看板にしていても、同じように解釈し、同じような姿勢を取らない人を排除する。イデオロギーである。

 レヴィナスが「同」の世界として、知を中心とした知識の体系として哲学と神学を観ているのに納得する。聖書を理解しているこちらの知の世界である。あることの聖書理解でひとつの教派の神学が生まれ、別の視点で別の教派の神学が出てくる。そして人の弱さとして同じ理解をしない人を人でないかのように思ってしまう。神学的な理解は隠れた剣のようなものである。最後に必要なときにだけ出すものである。それが最初から、しかもいつも表に出ているとあちこちで血が流されてしまう。

 信仰は自分の世界を出ていくものである。自分の知の体系を打ち破るものである。自分の外の知らない世界を信じて出ていくものである。まだ見たことのない世界を信じて求めていくものである。それは厳しいことである。ある着地点をいただき、ある理解をいただき、ある仲間をいただき、そこで安着できたらばどんなに楽なことなのかと思う。しかしそうはいかない。留まっていることはできない。留まっていたらば死んでしまう。

 信仰は自分の外に出ていくことである。忘れたい過去があり、痛みを覚え老いていく肉体があり、負わされている重荷があっても出ていくことである。外に出ていってもなお自分であることは変わらない。それでも外に出ていくことで新しい風をいただくことである。心の窓が開き、心の扉が開いていることである。新しい風に心が生き返ることである。

 聖書からキリストのことを理解する、キリスト論としてまとめる。神学として大切なことである。しかしそれはキリストにより近づく、キリストと一つとなることの保証ではない。むしろイデオロギーを助長してしまう。キリストと一つとなるためには自分の理解の外に出ていかなければならない。自分を捨てて出ていくことである。

 ジョン・バニエはそのようにして出ていった。そしてキリストが生まれつきの盲人に目を留められたことに、ジョン・バニエも目を留めている。礼拝の後にいつも寝たきりの方を訪問している。真珠湾攻撃を知って海兵隊に入って日本軍と戦った方である。顔を向け、声をかけるとニコッと笑ってくれる。昨日「何歳ですか」と問いかけたら、1分ぐらいしてからゆっくりと「90−5−さい」と返事をしてくれた。そんなやり取りに心が感動する。

 信仰は外に向かっていく。自分の外に出ていくことを促す。見えないものを信じて出ていく。とても厳しいことである。どうしても自分の内に留まり、自分の理解でき、見えるところですべてを納めたくなる。罪のゆえである。イエスは遠慮なく言う。「あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:41)

上沼昌雄記


 「同じ理解をしない人を人でないかのように思ってしまう。」この部分、「(神学的に)同じ理解をしない人をクリスチャンでないかのように思ってしまう」と言い換えると、意味がとてもよくわかる。神学的な立場や理解が違うがために、互いに切り裂き合うような論争が、クリスチャン同士の間でこれまでどれだけなされてきたことだろうか。

 そして、この部分。「聖書からキリストのことを理解する、キリスト論としてまとめる。神学として大切なことである。しかしそれはキリストにより近づく、キリストと一つとなることの保証ではない。むしろイデオロギーを助長してしまう。キリストと一つとなるためには自分の理解の外に出ていかなければならない。自分を捨てて出ていくことである。」これが神学者である上沼先生の口から出た言葉であることを思う時、本当に頭が下がる。先生は本当に学識のあるお方だけれど、先生が求めておられるのは「学」ではなく、ましてや「イデオロギー」でもなく、ただキリストご自身であることがよくわかる。神学者としてではなく、キリスト者としてイエスを追い求めておられる姿が見える。(私などが言うのも、非常に僭越なのだけれど。)そしてそれが、もっとイエスさまを知りたい、慕い求めたいという願いを、私の中にも起こさせる。

 前半の方で、「仲間、グループ、共同体、社会、国家などといった同心円のなかで自己増殖していくイデオロギー」に言及されている。近年、キリスト教界でも共同体(コミュニティー)の概念が見直しされてきていると感じるが、(そして、それはとても良いことだと思っているが)、せっかくのキリストにある共同体が、自分たちのお気に入りのイデオロギーを自己増殖させるだけの場所となってしまわないよう、私も目を覚ましていたいと思わされた。自分で「得た!」と思った悟りや理解に頼り、それに執着するなら、私たちはそのような罠に簡単に陥ってしまうのだろう。
 自分を捨て、自分の悟りや理解の外へ出て行くこと。まだ私たちには見えていない、心で考えたこともないような、偉大なる創造主の知恵に触れ、そのお方の側にもっと近づいていくために。

(上沼先生の「神学モノローグ」及び「ウィークリー瞑想」のこのブログへの転載は、先生から許可をいただいた上で行っています。)

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