朝から朗報
主にある家族であり友人のYさんから、今朝、朗報がはいった。彼の喜びと、彼が辛かった時期を祈りと交わりにおいて支えていた人たちの喜びが伝わってきて、すごく嬉しかった。
この件を通して現わされた主の真実とご栄光に思いを巡らしつつ、そこから派生してつらつら思ったこと。
たとえば、同じことを祈り、願い求めている3人のクリスチャンがいたとする。
一番目の人は、奇跡的としか言えない方法で、ただちに祈りが答えられ、願い求めていたものが与えられた。
二番目の人は、待って、待って、待って、忍耐して、忍耐して、忍耐して、痛みと苦しみと不安の中を長期間通らされた後で、ついに祈りがかなえられ、願い求めていたものが与えられた。
三番目の人は、二番目の人と同じように、待って、待って、待って、忍耐して、忍耐して、忍耐して、痛みと苦しみと不安の中を長期間通って、そして結局求めていたものは与えられなかった。
こういう状況、三者を同時に並べて見ることはあまりないとしても、現実には頻繁に起きていることだと思う。客観的に見るといかにも不公平だけど、神様の目から見れば、どれも同じように御手が置かれていて、それぞれに神様の目的とご計画があり、私たちは神様の主権のもとでそれぞれの状況に置かれている。だから、愛であり全能である神様の善意とそこから来るご計画に私たちが信頼するのであれば、この三者のどの立場にいようとも、神様に栄光を帰すことができるんだ。
すぐに祈りが答えられたからといって、自分が何か正しい者であるかのように思うなら、それは大間違い。また、結局最後まで祈りが答えられなかったと思っても、自分が願っていたものから一旦目を離し、もっとよく周りを見渡してみるなら、自分が思っていたものとはまったく違うもの(でも、神様がカスタムメイドで用意してくださっていたもっと素晴らしいもの)への扉が開かれていることに気づくかもしれない。
これまでに、私もこの三つの立場のどれにも立たされたことがあるし、これからもあると思う。自分がどんな状況に置かれても、主の愛と善意を信頼して、主の御栄光を仰ぎ見ることのできる者でありたいなぁ。