ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

会堂建て増しプラン

 今私が行っている教会が、今度会堂や駐車場などを建て増しすることになった。…とそれだけなら、別に珍しくもなんともないだろうが、今使っている会堂も、実は2年半前に新しく建てたばかりの新品。ではなぜ、また建て増し? …というのは、人がどんどん増えているから。
 私たちがこの教会に行き始めたのは2005年の11月頃。(本格的に家族で通い出したのは2006年の1月。)当時は、教会員は2000〜2500人くらいで、会堂は、500人収容できる体育館で土曜日に2回、日曜日に3回の計五回の礼拝(同じ内容のもの)を持っていた。それでも入り切らなくて、他の部屋にスクリーンを出してメッセージを中継せざるを得なくなり、ついに今の会堂の建設にいたった。
 今使っている新しい会堂は、2000人余り収容できる。ここで、日曜日の朝2回、土曜日の夕方1回の計3回の礼拝を持っていて、現在の礼拝出席者は4000人強。2週間前には4900人を記録した。1997年の教会員数が約350人だったというから、この10年で10倍以上になったことになる。会堂にはまだもう少しゆとりがあるのもの、新会堂を建築したときの誤算が、駐車場だった。会堂には座席が空いているのに、駐車場に車を止められないせいで、帰ってしまう人たちが続出してしまった。それで、教会から少し離れたところにある施設の駐車場を日曜日だけ借りることにし、教会員はそちらに車を止め、そこからシャトルを出して教会まで行き来するようになった。シャトルも、最初は8人乗りくらいのマイクロバスを使っていたが、今は数十人入るスクールバスを借りてやっている。
 こんな後手にまわった対処では限界があるので、このたび、教会の隣にある空き地を購入して駐車場を増やし、会堂もさらに広げることになったわけだ。
 この教会は新興住宅地のはずれにある。今、30〜40代くらいのファミリーがどんどんこの地域に流入しており、しかもアメリカではこの年代の人たちというのは、子育ての不安などから、20代の頃には教会から離れていた人たちも再び教会に戻って来るという「回帰現象」が起きている世代なので、教会にどんどん人が増えているのもそのせいもあるかもしれない。去年1年で300人あまりが洗礼を受け、献児式もたくさん行なわれた。
 もちろん、教会は大きければいいというものではないと思う。でも、ものすごいアウトリーチをしているわけでもなく、ただ地域コミュニティーの中に存在しているだけで、口コミでどんどん人が集まってくるのだから、それに対応しないわけにはいかない。いわゆる「伝道」ではないけれど、地域に貢献するような働きはこれまでにいろいろやってきて(地域の福祉団体に衣類や食料などを寄付する、献血キャンペーンを教会で行ない、血液を寄付する、などなど)、そのたびに土地の一般の新聞に取り上げられたり、市長や福祉団体から表彰されたりしてきた。また、教会で行なっているディボースケア(離婚した人たちのサポート)、グリーフシェア(愛する人の死など、悲しみの中を通っている人たちのサポート)、セレブレイトリカバリー(各種依存症やその他の問題の中にいる人たちのサポート)には、病院やカウンセラーから紹介されて来た、という人たちも少なくない。
 こういうのを見ていると、いわゆる「伝道集会」とか、大掛かりな「福音クルセード」のようなものは、もしかしたら教会の独りよがりなイベントなのかも?と思ってしまう。少なくとも、もはや現代にはそぐわないものになっているのかもしれない。伝道集会と銘打って、人々を教会に連れて来るのでなく、教会がコミュニティーの中に出ていって彼らのニーズに仕える時、彼らは私たちの存在に気づき、興味を示し、そして彼らの方から教会に足を運んでくれる。伝道集会ではなくても、日曜日ごとに教会で真摯な礼拝が捧げられているなら、そこに来た人たちは自ら何かを感じ取る。実際、そうやってイエス様を受け入れるようになった人がうちの教会には大勢いる。前回の会堂建設の時に水道管の設置をした人が、数週間前、初めてこの教会の礼拝に出席した。そしてそこで彼はイエスに出会い、これこそ自分の人生に必要なものだったと気づき、その次の週、洗礼を受けた。以前、間違い電話がきっかけで教会に足を運び、3回目に来た時には礼拝の最中に立ち上がり、その場で洗礼を受けた人もいた。(その時の話はこちら。)
 あれれ、なんだか話がずれてきてしまった。とにかく、今回の拡大事業のためには、それなりの資金が必要になる。この前の日曜日の晩に説明会があったのだが、その額を聞いてぶっとんだ。予算2000万ドル。円に換算すると約21億円。 いくら教会員が増えているからって、21億円って!? しかし、そのうちの200万ドル(2億円)は私が出しましょう、とすでに名乗りを挙げている人がいるらしい。他にも、50万ドル(5000万円)出します、という人とか… 50万ドル出すつもりの方は大手銀行の重役らしいが、日曜日の説明会では、彼がこんなことを分かち合ってくれた。彼は前回の会堂建築の時にも多額の献金をしたようで(自分ではそうは言ってなかったけど、そうなんだろうと思う)、彼はこう言った。
 「主の働きのために投資をして以来、神様は私に折りに触れて配当金を与えてくださいます。私は礼拝ではいつも前の列のすみの方に座るのですが、賛美の時、そっと身体をねじって、会堂全体を見渡すのです。すると手をあげて賛美をしている人たちによって会堂が埋め尽くされているのが見えます。その時、神様が私の心におっしゃるのです。『これが、あなたが私のからだのために投資してくれたことへの配当金だよ。投資したことを後悔しているかい?』私は喜びに溢れて答えます。『いいえ、していません! 私が投資した最後の1セントに至るまで、少しも後悔していません!』」

 私は、彼の言葉を聞きながら、そしてこの2年あまり、この教会を通して私自身が受けた恵みを思いながら次の御言葉を思い出していた。

 感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。
 すべて心から進んでささげる男女は、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を主にささげた者はみな、そうした。
 ……
また、心に知恵のある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青色、紫色、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。
 感動して、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。
 ……
 イスラエル人は、男も女もみな、主がモーセを通して、こうせよと命じられたすべての仕事のために、心から進んでささげたのであって、彼らはそれを進んでささげるささげ物として主に持って来た。
 (出エジプト35:21−22、26−27、29) 


 私たちが神様のために何かをしよう、捧げようという時、私たちを動かすものは、まさにこれ、「神の御言葉と御業への感動」なんだと思う。これがある時、私達は自ら進んで捧げたくなる。神への感動に動かされて捧げる時、神様もその捧げものを大いに喜び、祝福し、何倍にも増やして用いてくださるのだと思う。もちろん、いくら感動しても、みんなが200万ドルとか50万ドルとか捧げられるわけではないし、そんなこと期待もされていないのはわかっているけれど(説明会では、そのあたり結構詳しい説明があったので)、できる限りのことはしたいと心底思わされた。
 来年の秋にはエミが大学進学。学費などで年間1〜3万ドルはかかる覚悟でいる。「我が家の経済事情」を考えると、一体どうやって今以上に捧げるの?と思ってしまうが、改めて、私たちが今持っているもの、またこれから必要になるであろうもの、すべてを主の御手の上に乗せて、主に導かれながら進みたい。

 

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