MEMO:アウグスティヌス(2)
『告白』の11〜13巻を先に読み、今は山田晶先生の解説を読んでいるが、これがまたすばらしい。中央公論社の版を買って、本当に良かった。(クレオパさん、高橋先生、感謝します!)
アウグスティヌスは若い頃に、当時の文化の中心であった北アフリカに「遊学」した。そしてそこでマニ教に入信する。マニ教というのは、ゾロアスター教に由来するもので、光と闇、霊と物質の絶対的対立という二元論を説く宗教なのだそうだ。しかしキリスト教をもうまく取り入れ、教会にもしのびこんでいたらしい。彼にとってのマニ教は、母モニカが信仰していた「とにかく黙って信じなさい」という泥臭いカトリックのキリスト教とは違って思索的であり、いわば近代的で知的なキリスト教だったようだ。しかし、やがて彼は、マニ教の「嘘」に気づくようになり、失望してそこから離れる。
アウグスティヌスはアフリカからローマにわたり、さらにミラノ行く。そこで、アンブロシウスという司教に出会う。アンブロシウスは、「聖書の文字の奥に隠されている深い意味を信者に開示し」、アウグスティヌスは彼から大きな影響を受けた。
これまで彼(アウグスティヌス)は、『旧約聖書』を文字どおりの意味にとり、それによって『旧約』に書かれていることは、不合理、荒唐無稽、さらには不道徳であると感じ、そのようなことをまにうけている教会の信者を嘲笑していたのである。しかし、司教の話を聞いているうちに、『旧約聖書』のふくむ深い意味がわかってきた。『旧約』のはじめからくりかえし予言されてきた神の子と、その予言の実現としてのイエス・キリストと、その神の子たることを強調するヨハネの福音書やパウロの書簡との内的関連が、はっきりわかってきた。要するに、真実のキリスト教がわかってきたのである。(30ページ)
同じ頃、彼は新プラトン派からも深い影響をうけるようになる。山田先生の解説によると、影響を受けたといっても、新プラトン主義をそのまま彼の神学の中に取り入れたのでなく、それが刺激となって、キリスト教の真理に新たに目がひらかれた、と言った方がいいようだ。 以下はアウグスティヌスの言葉。
「私はそれらの書物から、自分自身にたちかえるようにとすすめられ、あなたにみちびかれながら、心の内奥にはいってゆきました。……私はそこにはいってゆき、何かしら、魂の目のようなものによって、まさにその魂の目をこえたところ、すなわち精神をこえたところに、不変の光を見ました。」
このアウグスティヌスの体験って、なんとも神秘的な感じがするけれど(そして実際、中世には彼のこの考えは神秘主義へとつながっていくらしい)、でも、キリスト者なら、何らかの形で、このような不思議な神様とのエンカウンターって、経験があるんじゃないかという気もする。自分という存在に、とことん絶望したその時に、神様の救いの光を見いだす、みたいな… そう、この心の奥に入っていくということも、「あなたにみちびかれながら」するのだから。これこそキリスト教のスピリチュアリティなのかもね。
山田先生は言う。「ほんとうの意味での精神的なものは、そのようなしかたで自分の外に、あるいは自分の前に見られるものではなくて、自分のうちに、自己の内奥においてふれられるものである。心は外にむかうかぎり、真の自己をも、精神をも、神を見ることができない。」
「この場合、内面への道は、心から神への連続的な道ではなくて、心から神への超越の道である。心は直接神にゆくのではなく、神にいたる前に、心を神とをへだてる無底の深淵につきあたらなければならない。」(31ページ)
ここで山田先生がいう「精神的なもの」は、メンタルなものというより、むしろ現代で言う「スピリチュアルなもの」を指しているように思われる。
まだ途中までしか読んでいないのだけれど、アウグスティヌスがどこからどんな影響を受けているのか、整理しておきたかったので、自分へのメモとしてちょっと書き留めてみた。この辺りを読みながら、上沼先生がここ数年、自分の魂の闇と向き合うことについて語っておられるのを思い出した。上沼先生は、自分の「心の井戸を掘る」という表現も使っておられたっけ…