ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

Mystical and Practical(その2)

 hide&yoko先生こと、立川チャペルの高橋秀典先生から、先日言及した「信仰の成長の4つの段階」について、先生なりに解釈して13日のメッセージで用いられたとご連絡をいただきました。転載許可もいただいたので、その部分を以下にご紹介します。さすが、とてもわかりやすくて感謝です!

 「境界線」とか「クリスチャンの成長をはばむ12の誤解」の著者として有名なヘンリー・クラウド博士は、私たちの信仰の成長に四つの段階があると言っておられるとのことです。その第一は、「信仰を持っていない」(Non-Faith)段階、第二は、「制度的な信仰」(Institutional Faith)の段階、第三は「砂漠」(Desert)の段階、第四は、「神秘的で現実的」(Mystical&Practical)な段階です。
 第一の「信仰を持っていない」というのは、私たち信仰者の心の中にも、ときに起きる現実ではないでしょうか。
第二番目は、原因結果が明らかな信仰の段階です。たとえば、「神を全身全霊で愛するなら、あなたの人生は祝福される。父母を敬うなら、しあわせになり、地上で長生きができる(エペソ6:3)。夫婦が互いに愛し合うと、子どもは安定して育つ」というような聖書に一貫して記されている原則です。それを生活の中で具体化することによって、私たちは良い結果を見ることができます。しかも、神はしばしば、信仰生活の初期には、私たちを本当に甘やかしてくださり、祈りが次々と聞かれるという体験もできます。イエスを信じることによって人間関係も仕事もほんとうに変わったと思え、神は私たちの祈りを本当によく聞いてくださると感じ、信仰生活がバラ色に見えてきます。ただ注意しないと、この段階に生きている人は、困難を抱えている人を見るとやたら、アドバイスをしたくなります。
 ところがそのうち、信仰が壁にぶつかったように思える、信仰生活が「砂漠」のように思えるときがきます。「祈っても、何の答えもない・・・神が遠く離れているように感じる」という段階です。そのようなときに、人は、「私は何か方法が間違ったのか・・・」と反省します。また苦しみにあっている人に、「このようにしたら良いよ・・」と、How to式の教えをします。しかし、詩篇の祈りの多くの部分は、期待通りに行かない中で、「神よ。なぜ、いつまでも拒まれるのですか・・・」などと(詩篇74:1)、その原因が神の側にあるように訴えています。ヨブが理由もなく不当な苦しみにあったとき、彼の友人は、その原因がヨブの側にあるに違いないと迫りました。しかし、それはヨブをさらに苦しめ、またヨブの神を怒らせただけでした。ところがヨブは、目に見える状況は何も変わらないのに、「あなたにはすべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました」(ヨブ42:2)と神に告白できました。ヨブは人生の砂漠を通して、神とのパーソナルな交わりを知ったからです。私たちは自分の人生が順調なとき、世界が自分を中心に動いているような錯覚を抱きます。しかし、神は私たちの期待に答える為に存在しておられる方ではありません。神は世界の救いという大きな目標の中で、私たちひとりひとりに使命を与えておられます。
 そのように、神ご自身のご計画の中で自分の人生を見直すというのが、この第四の段階の「神秘的で現実的」(Mystical&Practical)な信仰生活です。それは、ルールよりも関係によって動機付けられ、内側にキリストのいのちが形作られることによって支えられている信仰です。イエスは、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)と言われました。僕は、自分はそれなりに真面目で能力があると自負していましたから、「イエスを離れては、何もできない」という断言の意味が長らく分かりませんでした。しかし、信仰的な「砂漠」を通り抜けたとき、その意味が少しは分かったような気がしました。私はそのとき、自分の責任ではないと思える問題の責任を負わざるを得なくなり、自分の無力さに圧倒されていたからです。私ちはアブラハムのように、自分に都合の良い生活の場を抜け出て、神に向かって生きるように召されています。ですから、自分の心地よい世界を抜け出て、砂漠を体験するのは、神のみこころです。そして、そこでこそ、自分の力の限界と「弱さのうちに働くキリストの力」を体験できます。しかし、自分の殻の中ばかりで生きていると、すぐに、イエスなしに何かをできるという気持ちになってしまいます。
 そして、自分の信仰が、イエスが喜ばれるものになっているかどうかの試金石は、そこに人へのさばき心があるかどうかによって判断できるように思います。第二の「制度的な信仰」の段階にいる人は、物事がうまく進んでいないのは、本人に問題があるとしか思えません。だから人をさばくことができるのです。私たちはいつもこの信仰の四段階を、行きつ戻りつしていると言えるのではないでしょうか。これは信仰の進歩を計る手段ではありません。信仰生活をもっと神の視点から見ることを学ぶためです。「砂漠」のただ中にいるような中でも失望する必要はありません。イエスが再臨のときに、私たちのうちに見たいと願っておられる「信仰」とは何なのかを考えるべきでしょう。

メッセージの全文はこちらからどうぞ。

先生、どうもありがとうございます!

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