ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

悲しい&祈り

 昨日のお昼ごろ、ツイッター経由でコネチカットの小学校で銃の乱射事件が起きたことを知った。キンダーガーテン(日本の幼稚園年長にあたる)から4年生までが通う学校。日本でも報道されていると思うので、皆さんもご存じだろうが、5歳から10歳までの20人の子どもと、6人の学校のスタッフ(校長先生を含む)、そして、犯人の27人が亡くなった。(後の報道によると、亡くなった子どもたちは皆6歳と7歳だったそうだ…)

 この国は、銃の乱射事件が多すぎるよ!!!!! 

 つい数日前にも、オレゴン州のショッピングモールで乱射事件があったばかりだよ。数ヶ月前には、コロラド州の映画館で、バットマンの最新映画の上映初日の夜中、乱射事件があった。
 数年前にはヴァージニア工科大学で学生による乱射で30人が亡くなった。コロラド州のコロンバイン高校での事件も、誰も忘れてはいない。

 これだけ多いと、ニュースを聞いても、「またか、嫌だなぁ、恐いなぁ」と思うくらいになってしまうのだけれど、さすがに昨日の事件は違った。小学校ですよ。キンダーガーテンと1年生の教室がターゲットにされたって…
 小さな子どもたちが、どれだけ恐ろしい思いをしたかと思うと、胸が張り裂けそうだ。子どもたちが泣きながら一列になって、先生に誘導されて避難する写真があったけれど、それを見るたびに涙が溢れ出す。親ならみんなそうだろうけど、自分の子どもとだぶる… 自分の子どもの小学校の教室が頭に浮かび、もしそこにガンマンが入ってきたら… そんなこと、考えたくもないけれど、それが昨日、このコネチカット州のサンディーフック小学校では現実に起こってしまった。
 20歳の青年の犯人は、キンダーガーテンの教師である自分の母親を自宅で殺害し、それから小学校に来て銃を撃ったらしい。
 アメリカの学校は、警備がものすごく厳しい。この学校も例外ではなかったらしい。うちの子どもたちの学校も、基本的にドアはいつもすべて施錠されており、外部の人は正面玄関から入り、数人の秘書が常時待機しているオフィスで、名前を書いて、名札をもらってからでないと、学校の中には入れないようになっている。普段からそれくらい厳しい。
 また、ロックダウンと言って、非常事態が発生したときに、学校のドアすべてを施錠し、人が入れないようにしたり、あるいは外に出られないようにするためのプロトコルもある。うちの子どもたちの学校にもある。たとえば、銃を持った悪者が逃走中のときなど、学校はロックダウンされる。
 災害時の避難訓練のように、ロックダウン時の訓練をする学校もあるらしい。サンディーフック小学校も、この突然の非常事態に、先生方は本当に素晴らしく対応なさったと思う。教室のドアの鍵を締めたり、トイレやクローゼットに子どもたちを誘導して隠れさせたり、一列にならんで手をつながせ、目を閉じて校舎の外に避難したり… 先生方だって、何が起こっているのか、はっきり分からないままでの指導だったろうと思う。先生方には、心からの敬意を表する。
 それでも、ガンマンに入って来られてしまった教室の先生方にはなすすべもなく、どれほど無念だったろうか…
 学校から緊急連絡のメールが入ったとき、親御さんたちはどんな気持ちになったことだろう。学校に駆けつけ、我が子の無事を確認できた親御さんはよかったけれど、そうでなかった親御さんたちは… 20人の亡くなった子どもたちの親御さんたちは…
 サンディーフック小学校の子どもたちの心に、トラウマが残りませんように、悪夢にうなされることがありませんように… 祈らずにはおれない。ああ、神様、この子どもたちをお守りください。そして、愛する子どもたちを失ったご家族、大切なコミュニティーの仲間たちを失ったこの町の人々に、あなたの愛と慰めが格別に注がれますように。

 こういう事件を起こす人は、精神状態がふつうではなかったのだろうけれど(いったい誰が、5歳の子どもたちに向かって銃を乱射できる!?)、だからと言って、いろいろ事情のある人による、不幸で残念な事件でした、では済ませられない。やっぱり、この国の一つの問題として、銃の規制がほとんどなされていないことがあると思う。政治的な話しがしたいわけではないけれど、これは事実だもの。アウトドア用品やスポーツ用品店に行けば、狩猟用の銃がふつうに並んでいる。スポーツとしての射的場とかもふつうにある。護身用として、自宅に銃を置いている一般の人も多いらしい。日本人の感覚ではピンとこないけれど。
 親の寝室にあった銃を子どもが見つけて、遊んでいるうちに誤って発砲して亡くなった(あるいは兄弟を殺してしまった)という痛ましい事件もある。夫婦喧嘩や、友人同士の喧嘩、あるいは路上で通りすがりの人と言い合いになり(road rageと呼ばれる)、カッとなって銃を取り出すというケースも全然少なくない。乱射事件は少ない(と言っても、先にも書いたように、決して珍しいわけではない)かもしれないけれど、こういったケースは、はっきり言って、しょっちゅうあるだろう。
 アメリカ人には、開拓時代からの文化・歴史的背景で、自分のことは自分で守るという意識があって、銃の規制を嫌がる人たちが多い。福音派のクリスチャンたちでさえそうだ。こういう人たちは、飲酒運転で事故を起こす人がいるからといって、車を廃止にはしないだろう!と言った理屈を言う。車と銃は、全然違うのに。
 護身のために、と言っても、現実には、皆が皆、普段から銃を身につけて持ち歩いているわけではない。自宅に銃を持っている人だって、モールや映画館で銃の乱射事件に巻き込まれるかもしれない。いくら自宅に持っていたって、本気で護身のためと思うなら、警官のようにみんないつでも銃を持ち歩いていないと意味がないし、学校の先生は教室に銃を常備し、いつガンマンが入ってきても応戦できるようにしていないと、意味がない。しかし、当然、実際にはそんな社会は恐ろしいだけだ。銃の規制に反対する人たちは、そんな社会がほしいのだろうか? いくら護身のために誰でも銃を購入できるようになっているべきと言っても、現実には、人を殺そうと思っている人だけが銃を持って人のいるところに出ていくのではないか? 

 銃が規制されたからといって、こういう事件がなくなるわけではないのは分かっている。法律では人の心は制御できないし、病んでいる心や人間関係を癒すこともできない。それでも、法律によって少しでも制御できる部分があるならば、それも一つの策ではないのか。
 約十年前の、日本の池田小学校事件。あのときの犯人は刃物を持って小学校に侵入し、8人の命を奪った。もし日本でも銃が簡単に手に入るようになっていたなら、あの犯人は刃物ではなく銃を持っていたかもしれない。銃を持っていたなら、被害者は8人では済まなかったかもしれない。

 銃の規制は、アメリカが抱える大きな問題に対し、ほんの小さな対応策しか提供できないとは思うけれど、それでも具体的にできることの一つだ。
 一方で、人の心の闇、社会の闇に対して、光と癒しと解放と贖いをもたらすことができるのは、福音だけなのも事実だろう。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。(イザヤ61:1−3)

 これを成就するために、油注がれた方であるメシアなるイエスがこの世に来てくださった。イエスは、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と言われたのだ。(ルカ4:18、19、21)
 イエスはすでに来てくださった。だから私たちはクリスマスを祝う。
 でも、イエスが「実現しました」とおっしゃられたことと、私たちが実際に見ている現実とのギャップを思うとき、何が欠けているのか?と問わずにはおれない。昨日シェアした、上沼先生の言葉をもう一度思う。

「神は、御子のうちにおられ、御子において私たちと出合い、御子を通して私たちを導かれる。私たちは、御子を中心に生活し、 教会の徳を建て上げ、 神の民であることを示していく。
 
 イエスさま、あなたは、あなたがこの世に来られたのは、「捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるため」だとおっしゃいました。油そそがれた方(メシア)であるあなたがこの世に来てくださったことにより、それが実現したとあなたはおっしゃられました。主よ、それなのに、この世にはまだまだ多くの苦難があります。最終的な御国の完成は、あなたが戻ってこられるときなのはわかりますが、それまでに、私たちはどうすればいいのでしょうか。あなたの民を導いてください。あなたの民を教えてください。今、教会(The Church)が、あなたの民として委ねられている働きを行うことができますように、どうか助けてください。
 政治的な働きに関することの前には、私はどうしても無力感を覚えてしまう弱い者ですが、それでも、私たち一人ひとりが、自分の生活の中でできることがあるはずだと思います。もっと愛する者に私を変えてください。
 家庭で。友人たちの間で。自分が属すコミュニティーの中で。
 自分が置かれている場で、あなたが教えてくださっている生き方を、愛し方を、実践できる者にしてください。
 聖霊様、助けてください。力をお与えください。あなたの民に。あなたのしもべたちに。
 主なるイエスさま、あなたがこの世に人となって来てくださり、私たちを招いてくださったのは、私たちの罪が赦され、死んだあとに天国に行けるようになるためだけではありませんでした。あなたは、今ここで、この地上において、あなたの御国に私たちを招きいれ、そこであなたの民として生きるよう招いてくださったのです。あなたのご聖誕を、クリスマスを、祝うにあたり、そのことをもう一度思い出させてください。あなたが私たちの間に来てくださったように、私たちも、この地において、あなたの民として生きるのだという決意を、もう一度新たにさせてください。そうやって、真に「福音」をこの世に伝えていけるために。


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追記:ウィロークリーク教会の牧師、ビル・ハイベルズの奥さんであり、社会活動家でもあるリン・ハイベルズが紹介していた、彼女の友人Todd Deatherageのブログ記事を読んだ。とても共感したので、ここからもリンクします。

And so we wait. O Come, O Come, Emmanuel. But we wait not in passive resignation or despair. Expectant and hopeful waiting requires that we pray. “Thy kingdom come, thy will be done.” And it requires us to be agents of that kingdom. In Advent we neither ignore the brokenness in us and around us, nor do we ignore the transformative power of Christ and the flowering and the beauty of a new way of doing business. We wait in hope, knowing that the Jesus Kingdom will one day bring about a restoration to the way the world was meant to be. We love deeply. We advocate justice. We feed the hungry and clothe the naked. We love deeply and give sacrificially. And, as the Psalmist admonishes us to do, we seek peace, and pursue it (Psalm 34:14). We do all of these things in the power of the First Advent and in the hope of the Second. O Come, O Come, Emmanuel.

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