ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

境界線に関する質問

だにこさんから5月6日付の日記のコメント欄に、境界線に関する質問をいただきました。だにこさんが感じておられる事と同じことを思っておられる方は少なくないのではないかと思ったので、だにこさんのコメントとそれに対する私のレスポンスをこちらにも記録しておきます。 やりとりの全文は5月6日のコメント欄にあります。

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だにこ。『こんにちわ。僕はそんなに境界線について勉強してないんですけど、前から思っていたことを書いて見ます。

クリスチャンではないんだけど、中村326というイラストレータが書いていた詩の中で、verbatimではないのですが、こんなことを言っていました。
「傷つく、ということは、人との距離の取り方に関して、一番の先生だ。
だけど、人にはときに、超えてはいけない線を超えて、対岸の火事を
助けに行かなきゃいけないときがあるんじゃないだろうか。
昨日という鉛筆の線を自分という消しゴムで消しながら」

境界線の大切さと、それをむやみに越えることの危険は、本当にそうだと思うのです。だけど、ときには、「それを超えて愛しなさい」って言われることもあるんじゃないかなぁって思いました。(でもそれは、境界線が広がるっていうことなのかな?) 境界線を越えて、傷つくことを恐れず愛したっていうのが、まさにジーザスの受肉の愛なんじゃないかなって思ったのです。そして、十字架を負って従う自分たちにも、そういう犠牲を払わなきゃいけないトキがあるっていうか... どうでしょう。どうでしょう。』
 
はちこ 『だにこさん、こんにちは! コメントありがとうございます。(^^)

だにこさんのおっしゃること、よくわかります。確かにイエスさまは神であられるのに、ご自分を無にして肉を取られましたよね。アダムとエバが境界線を超えたせいで人類の中に入って来た罪から人間を解放するために、イエスさまも境界線を超えて人となってくださいました。「Love Incarnated」、私たちには想像を絶するような愛の御業です。

「傷つくこと」を恐れずに愛することの大切さというのもわかります。また私たちは「傷つくこと」を通してこそ学べることもたくさんあると思います。ただ、傷つくことも恐れずに愛することができるのは、「境界線」をしっかり持った人ならではのことだ思うのです。このコメント欄の上の方で、クラウド博士の『境界線略解』の中から「目的をもって、自由に愛すること、これこそ境界線が生む究極的な実です」という言葉を紹介しましたが、境界線をしっかり持っていて初めて、私たちは主体的に自由に大胆に愛することを選べるのですね。

なぜ「境界線」をしっかり持った人は傷つくことを恐れずに愛せるのか、それは、傷ついた時には自己憐憫に陥るのではなく、どこにその傷を持っていって癒しと慰めと励ましを受け取ったらいいか、わかっているからではないでしょうか。残念なことですが、「傷つくことを恐れずに」と思っていろいろなことに飛び来んでも、いざ傷ついてしまうと、自己憐憫とresentmentと痛みの中から抜け出せなくなってしまう人は少なからずいるように思えます。しかし境界線がしっかりしている人は、主体的にそのような選びとりをし、そして結果として傷ついたとしても、そのことで人や状況や神を責めるのではなく、自分で責任を取れる人です。つまり、傷ついた心を適切に神と人(キリストの身体)の前に差し出して、癒しを受け取ることの出来る人です。そしてそれを繰り返していく中で、人は品性を練られ、主にあって成長していくのではないでしょうか。イエスさまが「自分を捨てて、十字架を負って私について来なさい」とおっしゃったとき、それは決して私たちが自分を捨てっぱなし、傷つきっぱなしでいいと思ってそう言われたのではなく、神はさらに良いもの、さらに価値のあるもの(まことのいのち)で私たちを満たし、覆うことのできるお方だからですよね。

また、「傷つくことを恐れずに、境界線を超えて愛する」といって私たちがその愛を実行しても、実は境界線は超えていないはずだと思います。というのも、私たちは、自分が持っている以上のものは与えることができないからです。私たちが他者や神を愛することができるのは、神がまず愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:19)私たちが他者に慰めを与えることができるのも、まず私たちが慰めを得たからです(第二コリント1:4)。

ですから表現上は「境界線を超えて愛する」と言っても、私たちが主から受けているチャレンジは、実際には、自分の境界線の中にあるもの(自分が主から与えられている各種リソース…愛、時間、エネルギー、知恵、技能、などなど)をまず自分のものとしてしっかり所有したうえでそれを最大限に差し出す、ということだと思うのですね。境界線は、いわゆる「コンフォートゾーン」とは違います。たとえそれがuncomfortableだとしても、犠牲のように思えても、神から委ねられたもの、与えられたものを、神と他者への愛ゆえに最大限に差し出していくこと… それができるものにさせられたいと、私も願っています。多分だにこさんが考えておられるのもそういうことかなぁと思いました。(^^)』

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