以前の日記より(ビュルキ師)
クレオパさんのところでビュルキ師の話題を読んで、ケンブリッジ時代に『主の弟子となるための交わり』の学び会をした時のことを思い出した。
その頃の日記の一部(ケンブリッジ日記2002年5月)。
『主の弟子となるための交わり』の学びより:
原題の『ツバイエルシャフト』は、「二人の関係」というような意味なんだそうだ。しかしそれは単なる「二人の関係」ではなく、登山で使うような「命綱」で結ばれている「二人の関係」。片方が落ちればもう一人も落ちるかもしれない。しかし踏み止まって支えることができるなら二人とも助かる。険しい登り坂も二人で助けあって進む。私は私、一人で好きな道を行く、というわけにはいかない。 …それは命がけで互いに責任を負い合うような関係。
信仰の歩みとは、個人主義的なものではなく、もちろん全体主義的なものでもなく、そんな「二人の関係」が基底になるというのがビュルキ師の主張するところらしい。「わたし」がイエス様の弟子として成長させられているためには「あなた」との関係が必要で、「あなた」の霊的成長のために「わたし」は責任を負っているし、「わたし」の霊的成長のために「あなた」も責任を負っている。そして「わたしとイエス様」の関係があるから「あなたとわたし」の関係も成り立ち得るし、「あなたとわたし」の関係を通して「わたしとイエス様」の関係も深まっていく…
「わたしとイエス様」の関係は、イエス様が文字どおり命をかけて下さった十字架のおかげで存在している。それは、イエス様の命と私の命が入れ代わったことによって保たれている。クリスチャンならみんなそう言う。みんなそのつもりでいる。しかし、その「わたしとイエス様」の関係がどれだけ真実のものであるかは、実は「あなたとわたし」の関係のなかに写し出されている…
(蛇足だけど、こうして書き記しながら思うことがある。しばらく前から思っていたのだけれど。『主の弟子となるための交わり』のなかでビュルキ師は、私たちはしばしば自分の霊的体験の乏しさを冗長で大袈裟な言葉や表現を使うことでごまかしている、というような意味のことを言っていた。私の書く言葉が、霊的体験の乏しさをごまかすための張りぼてのようなものになってしまいませんように、霊的実体験に裏打ちされたもの以上のことを書こうとする誘惑から守られますように、と祈らずにおれない。)
ここにある「互いに責任を負い合う」というのは、『バウンダリーズ』の中で「〜に対する責任」と説明されている概念のことだね。「あなた」の責任を「私」が代わりに負ってあげることではなく、「私」には「あなた」に対する責任があり、「あなた」にも「私」に対する責任がある、ということ。