ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

We can have a breakdown TOGETHER. :)

 今週の土曜日は、教会のワーシップチームで一緒だったアンのブライダルシャワー。タマラからメールが入り、シャワーに何か食べ物持って来れない?とのことだったので、オリエンタルチキンサラダでも持っていくよと返事。その時、最近どう?と聞かれたので、まぁ、いろいろだねぇと(笑)、12日の日記にも書いたジョン・ニュートンの賛美歌の話などをした。すると、この賛美歌の歌詞が彼女の心の琴線に触れたのか、思いがけない分かち合いをしてくれた。

 彼女には高校3年生の息子を筆頭に4人の子供がいる。難しい年頃の子供の育児で悩みが尽きなかったところに、3月にはご主人が突然仕事を解雇された。他にもいろいろあって、家庭の中のことや教会のことで、彼女は最近すっかり疲れていた。がっかりするようなことが次々と重なり、彼女はついに、神様からも、結婚からも、人生からも、もう逃出したいと思うようになって来たと告白してくれた。「主よ、なぜですか?」という思いに襲われ、ただ泣きながら深い眠りにおちてしまいたいと思うのだそうだ。でも、夫は自分がそんなふうに感じているなんて、夢にも思っていないだろうし、そもそも気にもかけてないと思う、と彼女は言った。自分と夫の間にはもはやほとんど何もなくなっているし、もう長い間こんな感じだった、でも、離婚しても自分一人では子供4人をサポートできないし、何より神様が離婚を願われないのはわかっているし。それでも、もうずーっと長い間この状態が続いていて、夫にほったらかしにされているように感じ、自分が哀れでしょうがない… 

 この話を聞いて、胸がしめつけられる思いだった。これだけ聞くと、彼女は信仰が弱いとか、主に十分信頼していないのだろうとか、思われるかもしれないが、タマラは私が知っている女性たちの中でも屈指のWoman of Faith なのだ。自分が大変な時でもみんなのことに心を配り、教会でも熱心に奉仕し、祈りにいそしみ、自分にできないことがあればちゃんと「ノー」も言えるし、素直に人に助けを求めることもするし、人間的にも成熟し安定していて、私は彼女をとても尊敬している。ご主人も教会で役員をしていて、リーダー的存在だ。確かに淡白そうなご主人ではあるけれど、傍目には絵に描いたようなクリスチャン夫婦。それなのに彼女の心にはこんな痛みがあったなんて… だけど、私はもちろん彼女の話を聞いて幻滅したり失望したりはしなかった。他の誰にも言えなかったという彼女の正直な痛みを分かち合ってくれたことを嬉しく思った。そういえば、去年の秋に別の友人Bと話をしたとき、Bも似たようなことを分かち合ってくれたっけ… みんな、いろいろ悩みや悲しみを感じることもあるけれど、それでも主を見上げ、主に信頼して忠実に歩んでいる。ただ、こういう感情的痛みについては通常、誰もおおっぴらには話さない。家族が病気になったとか失業したとか子供が問題を起こした、という話はしても、自分の内側で起きていることについてはなかなか話さない。誰にも言わないから、悩みの中で孤独に陥ってしまう。一皮むけば、具体的な状況は違えども、誰しも「人には言えない」と思っているような痛みや葛藤を抱えているかもしれないのに。

 今、JCFNの聖書通読がヨブ記に入った。そんな苦しみに遭うのは、隠れた罪があるからに違いない、とばかりに、「まっすぐな言葉」「正論」でヨブを突き刺す友人たち。 ヨブは悲しみと苛立ちの中で友人たちの言葉に反論しつつも、やがて神様に直接自分の苦しみを訴えるようになる。

「私は自分の不平をぶちまけ、私のたましいの苦しみを語ろう。 
 私は神に言おう。…」(10:1、2)

 ヨブの偉いところは、自分の不平、苦しみを、神様に向けて語っている所だと思う。 不平不満を神様に向かってぶちまけるなんて、何か不信仰で神様に対する冒涜のように思いがちだけど、もし私たちが心に不平や苦しみを抱えているなら、神様はそれを他の誰でもない、神様御自身にぶつけて欲しいと願っておられるんじゃなかろうか。

 詩篇116:10のダビデの言葉を思い出す。

I believed, therefore I have spoken, "I am greatly afflicted."
(私は信じた。それゆえ語った。「私は大いに悩んでいる」と。)

 どんな不平不満であっても、それを神様の前に持っていくことこそ、全ての状況に主の主権を認めることであり、私たちの弱さや限界や未熟さや、さらにはこの世の不公平さ、理不尽さ、邪悪さ、そういったもの全てを超越して私たちに触れることのできる神様に対して、全幅の信頼を寄せることになるのだと思う。

 興味深いことに、ヨブは三人の友人たちが現れるまでは、痛みの中でじっと耐えて決して不平を主の前にもらそうとしなかった。しかし友がやって来て、彼らがヨブの痛みを見て七日七晩、共にじっと地に座ってくれるという体験を経た後で、初めてヨブは口を開いて自分の境遇を呪い始めた。そして、決して助けになる優しい助言を得たとは言えないながらも、友とのやり取りを通じて、彼は神に向かって自分の正直な気持ちをさらけ出せるようになっていった。想像するに、ヨブの痛みは、家族や財産を失ったとか、身体中がひどいできもので覆われたとか、もちろんそれも十分辛いのだけど、でもそういう次元の事柄以上に、彼の心の中で、「神様、なぜですか?」という疑いが湧いて来たことだったのではないだろうか。信仰者にとって、自分の中に神様に対する疑いが湧いてきてしまうことほど、辛いことはないだろうと思うから…

 タマラとは、今度一緒にランチをしようね、と話した。Let us not feel we are ALONE or ISOLATED in this battle. We can have a breakdown TOGETHER. :) と。交わりの中でお互いに対して正直な分かち合いをすることが、神様の前でも正直な自分をさらけ出すことにつながり、私もタマラも、そこから神様からのお取り扱いを直接的にも間接的にも受けられるようになることを願いつつ。

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