ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

よりすぐれた賜物

 もう数ヶ月前になるけれど、このブログで聖書がいう「賜物」の定義について話題が上った時、立川の高橋秀典先生が賜物に関するメッセージの原稿をお分かちくださったことがあった。
 賜物を求めることについて大切なポイントをまとめたとても分かりやすいメッセージで、その中でも特に、次の箇所が私の心に留まった。

(第一コリント12章)28、29節には、様々な奉仕が記されますが、現代の科学技術を「奇跡を行う」ことに、医療技術を「いやしの働き」に含めても良いのではないでしょうか。現代の日本の教会が、二千年前や科学技術の及ばない地の教会と同じ必要を持っているとは限りません。賜物は、世界及び各個教会の必要から与えられるものであって、自分が生かされることより、互いの益になり、教会の徳が高められることこそ大切なのです。たとえば、現在の教会では、人の悩みや痛みに共感し、心の緊張を解きほぐすような賜物こそが、奇跡的ないやしよりも、「よりすぐれた賜物」(31節)として求められる必要があるかも知れません。


 実は私は、以前から31節にある「よりすぐれた賜物」の意味がよくわからなかった。神が与えてくださるものに、より優れたものとあまり優れていないものといった、格付けがあるのだろうかと、何だか納得がいかなかったのだ。それぞれの賜物の役割は違えども、どれも等しく「すぐれた賜物」と言えるのではないかと。しかし先生のメッセージのこの箇所を読み、「よりすぐれた」というのは、賜物固有の格付けではなく、現在自分が置かれている教会(個々の地域教会でも、キリストの身体としての教会全体でも)の中において、より一層互いの益になる、という意味なのかなと、とてもしっくりきた。

 「現代の日本の教会が、二千年前や科学技術の及ばない地の教会と同じ必要を持っているとは限りません。」なるほど、本当にその通りだ。なぜ現代のアメリカや日本の教会では、発展途上国のように癒しがなされないのか、という声があがることもあるが、このように考えれば納得する。ある賜物は超自然的な現われを伴い、人々の目を引くかもしれないが、そのような賜物が必ずしも現代の日本の教会の徳を高め、みなの益となるとは限らないだろう。(もちろん、そういう賜物が与えられている人たちは、キリストの身体のためにそれをどんどん用いるべきだろうけれど。) 私も、キリストの身体を建て上げるために、みなの徳を高め益となるような「よりすぐれた賜物」を熱心に求めて行きたいと改めて思わされた。

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