ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

ひだ

 明日はうちでCC07の第二回準備委員会があるため、今、ケーキを焼いている。ケーキをオーブンに入れて、焼き上がるまでの4〜50分間、ちょっと一休み。
 それでふと考えた。なぜ私は今ここにいるのだろうかと。ここ、というのはシカゴとかそういう場所のことじゃなくて、人生(信仰)の歩みにおける位置のこと。今私がここにいることが神様のご計画であったなら、神様はなぜ、その前にはあっちに私を連れて導かれたのだろう? しかもその前はまた向こうの方だったし。なんでここに一直線に連れて来てくださらなかったのだろう? 私が神様の御声を無視していた? いや、あっちにいたときも、向こうにいた時も、確かに神様の導きだと確信していたはず。(無視して突っ走ってた時も確かにあったけど。汗)それならどうして私は今はここにいるのか?
 …… ああ、そうか。わざと(?)なんだ。神様は、意図的に私を向こうに連れて行き、それからあっちに導き、そして今はここに連れて来てくださった。この後は多分また、別の場所に連れて行って下さるのだろう。山折り、谷折り、ジャバラっていうか、ひだ。そう、ひだ。神様は私の人生にひだを折ってくださっているのだ。
 だけど、「ひだ」って、何よ。グーグルで検索してみたら、あるページが一番上に来た。東京大学社会科学研究所の、希望学プロジェクトとか言うもののページで、企業人事部門に勤務する坂口さんという方の文章が出ていた。その方は人事部の方だから、就職活動中の学生と多く接する。その中で、成績やら何やらはそこそこなのだけれど、何かが足りないと感じる学生に会うことが少なくないとおっしゃる。何が足りないのかと考えてみたら、そのような学生には「心のひだ」としか言いようのないものが足りないと感じるのだそうだ。坂口さんはまず、「ひだ」についてこのように説明する。

 人間の体内で「ひだ」と言えば、胃腸の表面や脳みそがすぐに思い浮ぶ。これらは、「ひだ化」することにより表面積を大きくし、栄養を吸収しやすくしたり、限られた入れ物に最大限の容積を確保するために進化してきたものである。

 さらに続けてこう言われる。

 では、どうすれば心にひだが育つのだろうか。

 私は、それは希望が破れる時だと思う。人は希望が破れれば絶望する。絶望すれば、その時は死ぬほど落ち込むし悔しいし心に傷もつくが、しばらくすると、この次はあそこをこうやって何とかしてやろう、という気持ちも芽生えてくる。加えて、そのように打ちのめされた状態にある人間の心持を理解することができるようにもなる。この経験を繰り返すことにより、心のひだも増え、その深みも増してくるのではなかろうかと思うのである。

 これを読みながら、クリスチャンにとって、心のひだが育つための「希望が破れる時」って、肉における希望が破れ、自己を死に渡して十字架につける時のことなのかもしれないなと思った。いろんな経験を通して、自分の中のここが死に渡され、あそこがキリストに明け渡され…… そうやって少しずつ、私という人間の中でキリストが支配する部分が広がっていく。「ひだ」が増え、私という有限の人間の中に、無限のキリストの姿が形づくられていく…

 神様が胃腸や脳のキャパシティを増やすためにひだを造られたなら、人生そのものにもひだを造られるとしても不思議はないよね。

 なーんてつらつら考えていたら、オーブンからバターのいい香りが。焦げちゃう前に、ちょっと見てきましょう。

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