ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

心痛んだこと

 今日は、エミが幼稚園の頃から仲良しだったお友達のBちゃんの卒業パーティーに行ってきた。(エミはまだオクラホマから戻っていないので、私一人で。)ところが、行ってみると、ほんの数人の人たちが裏庭で歓談しているだけ。Bちゃんのお母さんのSは、実は自分の体調がよくなかったのでパーティーはキャンセルして、ごく一部の人だけで集まることにしたの、と言った。エミの方にはキャンセルの連絡は入れたらしいが、エミが先週から留守のため、連絡が私にまで届かなかったようだ。
 Bちゃんは?と聞くと、Sは顔をくもらせて、「いないの。2週間前に家を出て、男の子と暮らし始めたの」

 Bちゃんとエミは幼稚園以来の友達で、小学生の頃から、私はBちゃんのこともよく教会のイベントに連れて行っていた。お母さんは当時シングルマザーで、もともとはクリスチャンだったけれど、若いときに神様から離れ、その後キリスト教系カルトに入ってしまい、霊的にも深く傷ついてた。私がこの母子と知り合ったのは、ちょうどSがそのカルトから抜け出そうとしている頃だった。まずはBちゃんを教会に連れていくようになり、Bちゃんがイエス様を受け入れた。エミたちが中学生の頃の3年間は、私はミッショネットという女の子のミニストリーの中学生クラスを教えており、Bちゃんのこともエミと一緒に毎週連れて行っていた。Bちゃんがミッショネットのキャンプで聖霊バプテスマを受けたときは、後からお母さんから電話がかかってきて、「Bがね、キャンプはどうだったって聞いたら、I was filledと言うのよ。何に満たされたの?と聞いたら、聖霊さまに、って… ありがとう、ありがとう…」彼女はそう言ってむせび泣いた。当時、まだカルトの傷から完全には立ち直れていなかった彼女は、ペンテコステ系の教会にもちょっと懐疑的ではあったものの、娘のその体験を、涙を流して喜んでいたのが印象的だった。
 やがてお母さんも教会に少しずつ来るようになり、当時彼女がつき合っていた男性も一緒に来るようになり、二人はBちゃんのユースパスターの司式によって結婚した。今から4年前の感謝祭の教会の夕食会では、感謝なことがある人はぜひ分かち合ってくださいというときに、Bちゃんが手をあげて、大勢の前で、「主にあってナカムラ家に感謝します。ナカムラ家が私を教会に連れてきてくれたおかげで、イエスさまを知り、自分の家族も救われてこうして教会に来れるようになったことを感謝します」と言ってくれたことがあった。自分の人生の中で、たった一人でもイエスさまのために影響を与えることができた人がいたなら、私の人生はもうこれで十分だ、と思えるほど嬉しく、主に感謝したのを今でも覚えている。
 その後、私たち家族は教会を変わり、エミとBちゃんも高校生になってからは、履修しているクラスが違うためにあまり顔を会わせることもなくなり、なんとなく疎遠になっていた。とはいえ、BちゃんともSとも、会えばいつも抱き合って近況報告しあったりしていたし、Bちゃんが私にとっての霊的養女であるには変わりがなかった。今日も、実はシカゴ郊外で日本人クリスチャンの音楽家の方のコンサートがあるので、そちらに行くつもりだったのだけれど、でもやっぱり、Bちゃんにとってのこの大切な節目、お祝いに行かなくちゃと思い、パーティーがキャンセルされていたのも知らずに出かけて行ったのだ。Sの話を聞いて、今日私が知らずにパーティーに来たのは主の御心だったに違いないと思った。
 Sは、ここ数ヶ月の間にBが通った変化について分かち合ってくれた。Sの再婚相手はとても良い人だったけれど、Bちゃんはやはり自分の父親を慕う気持ちがあったり、自分を大切に出来ない思いがあったり、いろいろ苦しいところを通っていたらしい。そして、その男の子と出会ったときに、まるで依存症になったかのようにその関係の中に引きずり込まれてしまったらしい。その男の子もいろいろ問題を抱えていて、Bちゃんは自分が彼を救ってあげなくては、と思っているようだ、とSは言った。しかし、現実には、Bちゃん自身その子に傷つけられることも多く、かといって離れられず… という泥沼にはまってしまったそうだ。
 S曰く、Bに目を覚まして欲しいと願って、「Whatever it takes...Bを取り戻してください」と祈ったら、Bちゃんはその直後に家を出たそうだ。だから、家を出てしまったことは非常に辛いけれど、ここにも主のご計画があると信じている、結局、B本人が自分で気づいて向きを変えないといけないことだから、とSは言った。
 かつて傷ついていた頃のSからは考えられないほどに彼女も強くなった。そのことを主に感謝し、主の御名をほめたたえた。そして、Bちゃんのためのこの闘いに、私にも参与せよと主は言っておられるのだと思った。
 「Bが同棲を始めたことは、実は教会の人たちにもまだほとんど誰にも言っていないの。でもはちこが私たちのことを愛してくれていて、何を聞いても裁いたりしないとわかっているから、分かち合わせてもらったのよ。どうか私たちと一緒に祈っていて」Sはそう言った。
 私も、もしBちゃんが誰かと話したくなったり、どこかに逃げ込む場所が必要なら、私のところに来てもいいからと伝えてね、と言った。Sは私の目をまっすぐに見て、大きくうなずいて言った。「ありがとう。伝えるわ。Bは、本当にあなたのところに行くかもしれない。そのときはよろしくね」
 
 高校生という、思春期の子どもにとって一番難しくなる時期に、結果としてBちゃんの人生から遠ざかることになってしまったことが悔やまれた。もちろん、私たちがずっとそばにいればこうはならなかっただろうなどと、そんな思い上がったことを考えているわけではない。ただ、中学生の頃、一緒にミッショネットに来ていたときの素直なBちゃんを思うと、その後の彼女がセルフエスティームや生い立ちなどのことでそんなに苦しむようになっていたとは、何と言うか、やっぱり悔しい気持ちになる。Bちゃんがイエス様の愛で輝いていた頃のことを覚えているだけに、悔しい。

 最近、我が家はすっかりみんやま〜やの友人たちのたまり場のようになっている。しょっちゅう子どもたちが出入りし、泊まって行ったりもする。今日も、夕べから泊まっていたみんの友人たちがさっきまでいて、さらに5人くらい別の友達もやってきて、みんなでキッチンでわいわいガヤガヤやっていた。正直、「うるさいなー」と思う気もちもあったのだけれど、Bちゃんのことを聞いて、はっとした。Bちゃんだけでなく、ほかの子どもたちのことも、我が家に出入りする限りは、心を込めて彼らと接し、彼らを愛そう、そう思わされた。これも、私の大切なミッションフィールドなのだから。

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