ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

クリスチャンにとっての創造論vs.進化論って?

 聖書と科学は相容れないものなのか?というテーマの昨日の礼拝メッセージの話の続き。

 なぜ今回、パスターがこのトピックをとりあげたのか、それは彼自身の痛い経験があったからだ、と冒頭に彼は説明した。
 このブログを以前から読んで下さっている方たちは覚えているかもしれないが、昨年6月、うちの教会に無神論者の青年を招き、壇上でパスターと対談したことがあった。(その時の記事はこちら。)本当に素晴らしい対話で、私もそこから多くを学んだ。ただ唯一、話題が進化vs.創造に及んだ時だけは、パスターの態度がやや意固地気味になり、同じ土俵での「対話」になっていないのが感じられ、それだけは残念だったなぁと私は思っていた。その後、パスターはこの無神論者の青年や彼の仲間たちと、ブログやメールで進化vs.創造についてしばらくやりとりをした。パスター曰く、その結果は悲惨で、結局のところ、サイエンスに関しては素人であるパスターは、大学で生物や化学を学んで来た無神論者たちの前に、こてんぱんに論破されてしまった。何が悲しかったと言えば、パスターは別に、進化vs.創造について話がしたかったわけではなく、神様のことを語りたかったのに、自分の曖昧な進化論批判のせいで彼らをつまづかせてしまい、本当に大切なことについて、まったく話す機会がもてなかったことだった、と彼は言った。
 ブログ上での彼らのやりとりは、実は私もしばらくフォローしていた。パスターなりに、創造を支持する「科学的根拠」を述べたり、進化論の間違っている点を述べようとしていたが、相手は、化学や生物の専門家たちで、パスターは突っ込みに突っ込まれていた。最後にはパスターは「私はサイエンスの専門家ではないのでこれ以上はわからない。もう議論はやめます」と投げ出してしまった。すると、「よくわからないのならなぜ、進化論を批判しようとしたのか? あなたは素晴らしい牧師だとは思ったけれど、このような無責任な主張や議論をするのであれば、あなたがいくら『神の愛』について語ろうとしても、あなたの語る言葉には耳を傾ける価値がないと思ってしまう」と一人の無神論者が言った。私は、この無神論者の言うことはもっともだと思い、胸が痛んだ。私自身、これは心に刻んでおかないといけないと思ったのを覚えている。
 このパスターは、福音主義の教会の牧師なら珍しくないと思うが、進化論を批判し、ID(インテリジェント・デザイン)論を支持していた。教会でもそのように教え、私たちがこの教会に来るようになる直前には、子供たちの学校の理科の先生に手紙を書いて、学校でも創造論やIDを教えるよう頼もう!キャンペーンをやっていた程だった。理科の先生に送るサンプルの手紙を教会員に配布し、いかに進化論が間違っているかを説くDVDも制作していた。
 彼のこのような行動はすべて、聖書を神の言葉と信じ、イエスを愛すればこそだった。だからこそ、せっかく無神論者たちと良い関係の中で会話をする機会が与えられたのに、結果として自分の言動が彼らをますます神様から遠ざけてしまったことに、彼自身、大きな痛みを感じたのではないだろうか。
 その後パスターは、このトピックに関するアプローチの仕方について、神様に知恵を求めたのだと思う。その結果が、昨日のメッセージだったのだろうと思う。

 最初にパスターが言ったのは、聖書と科学というと、相容れないものであるかのように議論されることが多いが、実際にはそうではない、ということだった。実際のところ、双方に極端な考えをする人たちがいて、ある人たちは「科学がすべてで、神の入る余地はない」と言い、またある人たちは、「神がすべてで、科学の入る余地はない」と言う。パスターは、後者のようなクリスチャンたちに悪気がないのはわかるが、彼らは勉強不足、情報不足であり、聖書を信じるクリスチャンは頭が悪い、という印象を世に与えてしまう、と言った。どちらの立場を取る人たちも、目の前にあるデータを無視し、自分の信条だけを押し通そうとする点で、無責任ではないだろうか、とも言った。
 そして彼は、会衆に向かい、「私もまた、自分の信条を固守するあまりドグマティズムに陥り、みなさんの信仰を傷つけてしまったことがあったと思います。まず最初に、そのことについて謝罪します」と頭を下げた。自分が間違えたと思った時、それを素直に皆の前で認めて謝罪できる人って、素晴らしいと思う。この誠実さとへりくだりこそ、私たちがイエスさまについて世に証しようとする上で、どんな理論武装よりも、一番の「武器」になるんじゃないだろうか。
 パスターは、聖書と科学は敵対しあうものではなく、どちらも正しく理解されるならば、本来調和するものであると言った。(これは、ぼぼるパパも以前から言っている通り。)
 科学とは、「HOW(どのようにして)」ということを探求するものであるのに対して、聖書の創造の記述が私たちに語っているのは「WHO, WHAT, WHY(誰が、何を、なぜ)」である。また、聖書の記述には、字義通りに解釈すべき箇所と、比喩表現または象徴的表現として解釈すべき箇所があるのも忘れてはならない。
 創世記1章には、「神は二つの大きな光る物を造られた」とあり、大きい方には昼をつかさどらせ(太陽)、小さい方には夜をつかさどらせ(月)、また星を造られた、とある。この箇所を文字通りに理解しようとすれば、天空には太陽と月という二つの光の源があり、月は星よりも大きいということになる。しかし現在の科学では、月は光を発していないし、月より大きい星は無数にあることは周知の事実。では、聖書の記述は間違っている、ということになるかといえば、そういう問題ではなく、当時の読者にわかるように表現したのだろうと言える。また、現在の私たちは、地球が自転しているのであり、空が回っているわけではないこともよく知っている。聖書には「日が昇る」「日が沈む」という表現が出てくるし、私たちだって日常的にそういう表現を使うが、だからといって、聖書が間違っているとか、私たちが非科学的だというわけではない。慣習的にそういう表現を用いているだけで、それによって科学的真理を述べようとしているのではない。また、黙示録に「地の四隅」という表現が出てくるからといって、地球が四角い平べったい形をしているわけではないことも現代の私たちはよく知っている。(昔はそう思われていたらしいけど。)
 創造が本当に六日間で行われたのか、それとも実際はもっと長い期間がかかったのか、神学者の聖書解釈にも諸説ある。地球や宇宙の年齢についても、科学者の間のコンセンサスはあるが、それだって新しいデータがでれば、今後また修正されるかもしれない。ちなみに、アメリカの福音主義の神学校のサイエンスの学部では、27%が「若い地球(地球の年齢は約6000年)」説、45%が「古い地球(地球の年齢は数十億年)」説、そして27%が「有神論的進化論(神が進化のプロセスを始めた)」の立場を取っているらしい。(残りの1%はそれ以外ってこと?)
 そして、パスターは、「私がここで言いたいのは、これが本当に重要な問題なのか? これは我々の救いに関わる問題なのか? もちろん違う!ということです」と言った。仮に創世記1章の六日間での創造は比喩的な記述であると解釈したとして、それではイエスの処女降誕やその他の聖書の奇跡の記述も、全部比喩的・象徴的であると解釈しないといけないのかといえば、それはまったく違う。私たちが目を留めるべきなのは、「HOW」ではなく「WHO」であり「WHY」の問題である。創造が文字通りの六日間であろうと、数十億年であろうと、神が私たちを愛の対象として造られ、神であるイエスが私たちを罪から贖うために人となってこの地上に生まれ、十字架にかけられ、死なれ、蘇られたと信じる信仰には何ら差しつかえない。
 ここまでメッセージを聞いていて、私は心の中でハタと気づいたことがあった。第一ペテロ3:15には「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」とあるので、私は創造に関することなども、説明を求める人がいたらちゃんと弁明できないといけないと思っていた。しかしここでペテロが言っているのは、「あなたがたのうちにある希望について」なのだ! 神様は、創造についてもちゃんと説明できるようでいなさいとは、おっしゃっていなかった。 申命記には「隠されていることは、私たちの神、主のものである」と書かれている。

 1916年に、科学者たちに「人間と個人的な関係持つような『神』の存在を信じますか」と尋ねたところ、40%が信じると言ったらしい。その後1990年代になってから、再び同じような設定で、科学者たちにまったく同じ質問をしたところ、神の存在を信じると答えたのはやはり40%だったそうだ。増えも減りもしなかった。70年以上の間に科学は相当進歩したはずなのに、新たに蓄積されたデータによって、さらなる人たちが神を信じなくなったわけでもなく、信じる人が増えたわけでもなかった。結局のところ、科学のデータそのものは神の存在に関してはあくまで中立であって(それが科学のルール)、それをもって神を信じる、信じないの結論を導き出すのは、個々の人間の心の問題、信仰の問題だからなのだろう。

 パスターは言った。教会にとって大切なのは、この世に神を指し示すことです。この教会は、あなたが「若い地球」説を信じようと「古い地球説」を信じようと「有神論的進化論」を信じようと、別にかまいません。自分で調べ、考え、納得のいくものを信じてかまいません。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り(understand)、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです(ヘブル11:3)」とある通りです。ただあなたがたにお願いしたいのは、あなたがどの説を信じようとも、その信条が、まだ神を知らない人たちにとってのつまづきとならないようにして欲しいということです。あなたが天国に着いたら、イエス様にどうやって地球や人間を造ったのか、聞くといいでしょう。きっとイエスは答えてくださるでしょう。ただその時、「なぜあなたは、わたしのもとに来ようとしていた人たちの邪魔をしたのか。わたしは、もっと大勢の人をわたしのもとに連れて来たかったのに!」と言われないようにしたいではありませんか。…

 私、泣きました。人の魂を恋慕ってくださる神様の、ハートビートを感じました。神様の大きな大きな御業と深い深いお心の中の、なんと小さな小さな一点に、私たちはこだわり捕われてしまいやすい存在であることでしょうか。科学と信仰について、これこそまさに神様が私たちに知っていて欲しいことなのだろうと、心にストンと落ちました。
 

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。(詩篇19:1)

 神様、すべての人たちの心の目が開かれ、あなたの被造物が語り告げている、あなたのご栄光と御手のわざを見ることができますように。私たちの自我やドグマが、その妨げとなってしまうことがありませんように。

 なが〜くなってしまってごめんなさい。読んでくださってありがとう。

追記:このトピックに興味のある方は、このブログ内の関連記事「ドーキンス vs. コリンズ」もご参照ください。

-ドーキンス vs. コリンズ(9/26/07の記事)

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